硯の底に棲むもの-間宮響子-
祖父の遺品整理は、妙に静かだった。
家族は皆、口数が少なく、何かに触れないようにしている空気があった。仏壇の前に置かれた古い木箱——それを開けたのは、孫である隆志だった。
中に入っていたのは、一つの硯だった。
黒い石の表面は異様に滑らかで、中央に不自然な緑色の染みが浮かんでいる。苔にも見えるが、石の内部から滲み出ているようにも見えた。
「それ……じいさんが大事にしてたやつだ」
父がそう言ったとき、ほんの一瞬だけ視線を逸らした。
「使うなよ」
その一言は、軽い調子ではなかった。
だが隆志は気にしなかった。むしろ、妙な魅力を感じていた。
——夜。
硯を持ち帰ったその日から、空気が変わった。
最初は音だった。
カリ、カリ、カリ……
墨をする音。
誰もいないはずの部屋の隅から、確かに聞こえる。
気のせいだと思った。だが音は毎晩続いた。規則的で、まるで誰かが丁寧に墨をすっているようだった。
三日目。
硯の表面が濡れていた。
触れてもいないのに、水が張られている。しかもそれは水ではなかった。
——黒かった。
粘り気のある、墨とも血ともつかない液体が、ゆっくりと波打っていた。
その夜、隆志は初めて“それ”を見た。
硯の水面に、顔が朧気に浮かんでいた。
目だけが、こちらをじっと見ていた。
「処分してください」
霊能力者・間宮響子は即座に言った。
だが隆志は首を振った。
「で、できません!」
「なぜですか?」
「……捨てようとすると、家の中で誰かが怒鳴るんです!」
響子は黙った。
「その声は?」
「祖父です。でも……違う。あれは祖父じゃない」
その言葉に、響子の表情がわずかに変わる。
「今、持ってきていますか?」
隆志は震える手で硯を差し出した。
その瞬間。
——カリ、カリ、カリ……
部屋の中で音が鳴った。
誰も触れていない硯から。
響子はゆっくりと手を伸ばし、硯に触れた。
その刹那。
彼女の視界に、別の光景が墨が広がるように流れ込んだ。
暗い部屋。
無数の人間が座っている。
全員が筆を持ち、同じ文字を書き続けている。
「赦」
「赦」
「赦」
紙は黒く塗り潰され、それでも彼らは書き続ける。
やがて一人が倒れる。
だが誰も止まらない。
倒れた者の血が硯に流れ込み、墨と混ざる。
それを、また誰かが使う。
終わらない。
終わらせない。
——これは“願い”ではない。
——これは“命令”だ。
響子は手をそっと離した。
「……これは、ただの呪物ではありません」
「じゃあ……何なんですか?」
「“書かせるもの”です」
隆志の喉が鳴った。
「人間の意思を削り、同じ行為を繰り返させる……思考を奪う類の存在です」
「そ、そんな……」
「あなた、最近何か書いていませんか?」
その問いに、隆志は固まった。
「……書いてます」
「何を?」
「それが……覚えてないんです。でも……朝起きると、机に紙があって……」
響子はそれ以上聞かなかった。
代わりに、静かに言った。
「見せてください」
隆志の家に向かう車内で、響子は一言も話さなかった。
そして家に入った瞬間。
彼女は足を止めた。
「遅かったかもしれません」
リビングの机。
そこには紙が積み上がっていた。
すべて同じ文字。
「赦」
「赦」
「赦」
インクではない。
すべて、あの黒い液体で書かれている。
そして。
その文字の中に、混ざっていた。
——人の顔が。
かすかに歪みながら、文字の一部として埋め込まれている。
隆志が叫んだ。
「こ、これ、俺じゃない!! 俺こんなの書いてない!!」
響子は禍々しい気を放つ硯を見た。
硯の海という箇所の水面が、ゆっくりと盛り上がる。
そして。
“それ”が、顔を出した。
祖父の顔だった。
だが目がなかった。
落ち窪んだ空洞のままの目、そして口だけが無機質に湿り気を帯びて動く。
「まだ足りない」
その声は、重なっていた。
何人もの声が同時に喋っている。
「もっと書け」
「もっと赦せ」
「もっと混ざれ」
隆志の手が勝手に動いた。
床に落ちていた筆を掴む。
「やめなさい!!」
響子が叫ぶ。
だが、止まらない。
彼は自分の腕を切り、その血を硯に垂らした。
黒が、さらに濃くなる。
「完成する」
硯の中の“それ”が言った。
「お前も、こちらにおいで……」
その瞬間。
響子は決断した。
硯を叩き割った。
——はずだった。
だが。
割れたのは、床だった。
硯は無傷のまま、そこにある。
そして気づく。
机の上の紙。
増えている。
さっきより、明らかに。
隆志は瞳が動かず、一点をじっと見つめ続け笑っていた。
「大丈夫ですよ」
その声は、もう彼ではなかった。
「まだ、書けますから」
彼の目の奥。
無数の“誰か”が、こちらを見ていた。
後日。
間宮響子の報告書には、こう記されている。
【対象は封印不能。破壊不可。移動不可】
【接触者は、徐々に“書く側”へと転化する】
【現在も進行中】
そして最後に、一文。
【この報告書を書いている最中も、手が止まらない】
その報告書の余白には、こう書かれていた。
『赦赦赦赦赦赦赦赦赦赦赦赦赦赦赦』
そして。
その文字は、今も増え続けている。
―(完)―




