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硯の底に棲むもの-間宮響子-

作者: 江渡由太郎 原案:J・みきんど
掲載日:2026/05/08

 祖父の遺品整理は、妙に静かだった。


 家族は皆、口数が少なく、何かに触れないようにしている空気があった。仏壇の前に置かれた古い木箱——それを開けたのは、孫である隆志だった。

 中に入っていたのは、一つの硯だった。


 黒い石の表面は異様に滑らかで、中央に不自然な緑色の染みが浮かんでいる。苔にも見えるが、石の内部から滲み出ているようにも見えた。


「それ……じいさんが大事にしてたやつだ」


 父がそう言ったとき、ほんの一瞬だけ視線を逸らした。


「使うなよ」


 その一言は、軽い調子ではなかった。

だが隆志は気にしなかった。むしろ、妙な魅力を感じていた。



 ——夜。

 硯を持ち帰ったその日から、空気が変わった。


 最初は音だった。

 カリ、カリ、カリ……

 墨をする音。


 誰もいないはずの部屋の隅から、確かに聞こえる。

 気のせいだと思った。だが音は毎晩続いた。規則的で、まるで誰かが丁寧に墨をすっているようだった。



 三日目。

 硯の表面が濡れていた。

 触れてもいないのに、水が張られている。しかもそれは水ではなかった。

 ——黒かった。


 粘り気のある、墨とも血ともつかない液体が、ゆっくりと波打っていた。

 その夜、隆志は初めて“それ”を見た。

 硯の水面に、顔が朧気に浮かんでいた。

 目だけが、こちらをじっと見ていた。


「処分してください」


 霊能力者・間宮響子は即座に言った。

 だが隆志は首を振った。


「で、できません!」


「なぜですか?」


「……捨てようとすると、家の中で誰かが怒鳴るんです!」


 響子は黙った。


「その声は?」


「祖父です。でも……違う。あれは祖父じゃない」


 その言葉に、響子の表情がわずかに変わる。


「今、持ってきていますか?」


 隆志は震える手で硯を差し出した。

 その瞬間。

 ——カリ、カリ、カリ……

 部屋の中で音が鳴った。

 誰も触れていない硯から。


 響子はゆっくりと手を伸ばし、硯に触れた。

 その刹那。

 彼女の視界に、別の光景が墨が広がるように流れ込んだ。

 暗い部屋。

 無数の人間が座っている。

 全員が筆を持ち、同じ文字を書き続けている。


「赦」

「赦」

「赦」

 紙は黒く塗り潰され、それでも彼らは書き続ける。


 やがて一人が倒れる。

 だが誰も止まらない。

 倒れた者の血が硯に流れ込み、墨と混ざる。

 それを、また誰かが使う。

 終わらない。

 終わらせない。

 ——これは“願い”ではない。

 ——これは“命令”だ。


 響子は手をそっと離した。


「……これは、ただの呪物ではありません」


「じゃあ……何なんですか?」


「“書かせるもの”です」


 隆志の喉が鳴った。


「人間の意思を削り、同じ行為を繰り返させる……思考を奪う類の存在です」


「そ、そんな……」


「あなた、最近何か書いていませんか?」


 その問いに、隆志は固まった。


「……書いてます」


「何を?」


「それが……覚えてないんです。でも……朝起きると、机に紙があって……」


 響子はそれ以上聞かなかった。

 代わりに、静かに言った。


「見せてください」




 隆志の家に向かう車内で、響子は一言も話さなかった。

 そして家に入った瞬間。

 彼女は足を止めた。


「遅かったかもしれません」


 リビングの机。

 そこには紙が積み上がっていた。

 すべて同じ文字。

「赦」

「赦」

「赦」

 インクではない。

 すべて、あの黒い液体で書かれている。


 そして。

 その文字の中に、混ざっていた。

 ——人の顔が。

 かすかに歪みながら、文字の一部として埋め込まれている。


 隆志が叫んだ。


「こ、これ、俺じゃない!! 俺こんなの書いてない!!」


 響子は禍々しい気を放つ硯を見た。

 硯の海という箇所の水面が、ゆっくりと盛り上がる。

 そして。

 “それ”が、顔を出した。


 祖父の顔だった。

 だが目がなかった。

 落ち窪んだ空洞のままの目、そして口だけが無機質に湿り気を帯びて動く。


「まだ足りない」


 その声は、重なっていた。

 何人もの声が同時に喋っている。


「もっと書け」


「もっと赦せ」


「もっと混ざれ」


 隆志の手が勝手に動いた。

 床に落ちていた筆を掴む。


「やめなさい!!」


 響子が叫ぶ。


 だが、止まらない。

 彼は自分の腕を切り、その血を硯に垂らした。

 黒が、さらに濃くなる。


「完成する」


 硯の中の“それ”が言った。


「お前も、こちらにおいで……」


 その瞬間。

 響子は決断した。

 硯を叩き割った。

 ——はずだった。


 だが。

 割れたのは、床だった。

 硯は無傷のまま、そこにある。

 そして気づく。

 机の上の紙。

 増えている。

 さっきより、明らかに。

 隆志は瞳が動かず、一点をじっと見つめ続け笑っていた。


「大丈夫ですよ」


 その声は、もう彼ではなかった。


「まだ、書けますから」


 彼の目の奥。

 無数の“誰か”が、こちらを見ていた。




 後日。

 間宮響子の報告書には、こう記されている。


【対象は封印不能。破壊不可。移動不可】


【接触者は、徐々に“書く側”へと転化する】


【現在も進行中】



 そして最後に、一文。


【この報告書を書いている最中も、手が止まらない】


 その報告書の余白には、こう書かれていた。


『赦赦赦赦赦赦赦赦赦赦赦赦赦赦赦』


 そして。

 その文字は、今も増え続けている。



 ―(完)―

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