無料のパンの耳 小さな成長物語
私の名前はマリエ。年齢は28歳で、都心のオフィスに通う会社員だ。契約社員のため給料は高くない。
それでも若い女性の1人暮らしだ。セキュリティだけはしっかりしていた方がいいと思い、家賃9万円のマンションに住んでいる。
世の中はインフレで、何でも値上げラッシュだ。
それなのに、給料は据え置き。節約しないととてもやっていけない。
美容や趣味の推し活のお金は削りたくない。
マンションも今のままがいい。
となると、削るのは食費という事になる。
私のマンションは商店街を抜けたすぐ先にある。
隣りはおじいさんとおばあさんで古くからやっている「エトウ」と言うパン屋さんだ。
私はハード系のパンが大好きなので、「エトウ」には行かない。しかし、最近ハード系のパン屋はまた値上がりしたので、さすがにもう行けないと思った。
日曜日の朝、ふと「エトウ」によると《サンドウィッチを1個買ってくれた方 パンの耳 無料》のポップに目がいった。
その上の棚には大きな袋いっぱいに詰められたパンの耳が置かれていた。元々ハード系のパンが好きな私には、硬いパンの耳は悪い物ではないだろう。今はお米も高いし。
「いいものを見つけた」そう思い、私はサンドウィッチを買い、大量のパンの耳を手に入れた。
こんなに大量のパンの耳をもらったのに「エトウ」のおばあちゃんは満面の笑みで「ありがとうございます」と言ってくれた。
「絶対にまた来よう」私は決意した。
家に帰るとパンの耳のレシピを検索した。
フレンチトースト。
ラスク。
グラタン。
焼いて何かをつけて食べてもいいし…。
パンの耳は思った以上に万能だった。
私はパンの耳でフレンチトーストを作った。
甘くて、意外と美味しい。
「これなら全然いけるじゃない」
これはすごい発見だ。
パン屋の隣に住んでいるんだから、仮に争奪戦になっても負ける事はないだろう。私は未来が急に明るくなった気がした。
次の日はパンの耳を焼き、レンジで溶かしたチョコレートをつけて食べた。
その次の日はラスク。
気がつけば「エトウ」のパンの耳が主食になっていた。
サンドウィッチを買い、袋いっぱいのパンの耳をもらう。
おばあちゃんはいつも同じ笑顔で言う。
「ありがとうございます」
私は嬉しくなり、他にも無料の物にチャレンジみようと思った。
まず思いついたのは図書館だ。考えてみれば、歩いて行く「散歩」だって無料だ。
春の日差しはやさしく、風も気持ちいい。
……けれど、私は花粉症だ。
くしゃみをしながら歩いても、あまり楽しくない。
それでも私は図書館へ向かった。
静かな館内をぐるりと見渡す。
本はたくさんある。
しかし、特に読みたい本がない。
私は少しだけ棚を眺めてから、そそくさと図書館を出た。
う〜ん……。
今更ながら、どちらもイマイチ性に合わない様だ。
他に無料のものといえば——。
そう、実家だ。
実家から職場までは電車で小1時間ほど。通えない距離ではない。父だって昔はそこから都内まで通っていた。
兄も姉もすでに家を出ており、祖母も亡くなった。家には空いている部屋がいくつもある。そう考えると、実家に戻るのはかなり合理的だ。
家賃はかからない。その分、推し活にもお金を回せる。
それに——。
いい年をして、パンの耳を主食にしている生活ともおさらばできる。パンの耳をもらっているなんて、
恥ずかしくて誰にも言っていないのだから。
* * *
実家に帰ってから、1週間が経った。
「マリエが帰ってきた」
両親はどこか嬉しそうで、こちらまで少し嬉しくなる。
久しぶりの実家は、すこぶる居心地がよかった。
ご飯は出てくるし、洗濯もしてくれる。
お風呂だって勝手に沸いている。
しかも——
家にはお金を入れていない。
つまり無料だ。
そう考えると、今まで払っていたお金が急に不思議に思えてきた。
家賃。
食費。
光熱費。
ざっと計算しても、毎月15万円くらいはかかっていたはずだ。
では、その15万円は一体どこへ消えていたのだろう?
私は少し首をかしげた。
1ヶ月後
兄も姉も祖母もいない実家の生活は、昔とは明らかに変わっていた。
家の中は妙に静かだ。
その分、両親の視線がすべて私に集まる。
「マリエ、結婚は?」
「マリエ、そんなアイドルにばかり夢中になって」
「マリエ、また服買って」
「マリエ、部屋を片付けなさい」
……落ち着かない。
28歳にもなって実家に戻ってきたということで、近所の目もどこか気になる。
どうも、居心地がよくない。
私は考えた。
家にお金を入れる。
手土産を買って帰る。
家事も手伝う。
推し活は隠す。
無駄遣いは控える。
そして——
婚活もしているフリをするのだ。
半年後
実家での生活は、もう限界だった。
“ちゃんとしている風”を装うのは、想像以上にストレスがたまるのだ。
家にお金を入れる。
手土産を買う。
家事を手伝う。
推し活は隠す。
無駄遣いは控える。
そして——
婚活もしている“ふり”をする。
そんな生活を続けているうちに、私はようやく気がついた。
あの消えた15万円の正体に。
あれは——
家賃でも、食費でも、光熱費でもない。
“ちゃんとしている風”を装わなくていい自由を買うお金だったのだ。
2ヶ月後
物件を探していたら、以前住んでいたマンションの部屋がまだ空いていたので、私は再びそこを借りて引っ越した。
やはり、住み慣れた場所がいい。
引っ越し費用や、もう1度マンションを借りるためのお金を考えると、預金残高は大して変わっていない。
ああ、結局少しだけ歳をとっただけで何も変わっていない。
そんなことを考えていると、お腹が空いてきた。
行き先は、自然と足が向いていたのは隣にあるパン屋の「エトウ」だった。
店の前には、見慣れたポップが出ている。
《サンドウィッチを1個買ってくれた方 パンの耳 無料》
私はサンドウィッチをひとつ買い、袋いっぱいのパンの耳を手に取りレジへと向かった。いつものおばあちゃんだ。
「ありがとうございます」
以前と変わらない優しい笑顔だ。
私の事は知っているはずなのに、余計な事は何も言わない。
「えっと、…あの…これ長期間出張に行っていたお土産です。よかったらどうぞ…」
私はちょっとだけ嘘をいい、有楽町にある北海道のアンテナショップで買った《白い恋人》を手渡した。
「まあ、ありがとうございます。これからもウチをよろしくお願いしますね」
「はい!こちらこそ」
私は丁寧にお辞儀をした。
何も変わっていないはずだけど「無料」の意味だけは少しだけわかった気がした。




