第09幕 因果の捕獲
窓ガラスを突き破り、非常階段を転がり落ちた。全身をコンクリートに打ち付ける鈍い音。だが、止まれば死ぬ。
川添千秋は、夜の国道を走った。三十路を超えた肉体が軋む。喫煙で汚れた肺が、酸素を求めてヒューヒューと笛のような音を立て、喉の奥に鉄の味が広がった。
背後を見る。走ってはこない。銀髪の少女――ペネロペは、アスファルトの上を滑るように追ってくる。
膝が曲がらない。重心の上下動がない。まるで画像編集ソフトで切り抜いたレイヤーを、背景の上で平行移動させているような不自然な挙動。
「逃がさん」
頭蓋骨を直接揺らす振動音。
川添は南澄大橋へ駆け込んだ。夜風が汗ばんだシャツを冷やし、皮膚に張り付かせる。逃げ場がない。橋の中央。彼は手すりに背中を預け、咳き込んだ。
ペネロペが停止する。彼女が右手をかざす。黒い霧が収束し、大気が飴細工のようにねじれていく。
さっきの部屋と同じだ。音が遠のく。耳が詰まる。衝撃波が来る。人間の骨格など、一瞬で粉砕する圧力の塊だ。
避けるか?無理だ。反応速度が違う。では、死ぬか?
川添の手が、腹の下のカメラを強く握りしめた。
熱い。
グリップが発熱している。レンズの中央に入った「亀裂」が、ドクン、ドクンと赤く脈打ち、川添の掌の血管と共振していた。
川添はカメラを構えた。ファインダーを覗く。
その瞬間、乱れていた呼吸音がピタリと止まった。震えていた指先が、機械部品のように固定される。
恐怖が消えたわけではない。ただ、網膜と人差し指をつなぐ神経回路が、生存本能よりも優先度の高い「記録」のモードへと切り替わっただけだ。
暗闇の中、ペネロペの掌に圧縮された破壊エネルギーが見える。レンズの亀裂越しに見ると、それは「死」ではなく、単なる「光量オーバーの被写体」として分解されて見えた。露出計の針が振り切れている。
「消えろ」
ペネロペの手が振るわれた。不可視の衝撃波が放たれる。アスファルトがめくれ上がり、手すりの鉄骨が悲鳴を上げてねじ切れる。物理的な死が、眼球の数センチ手前まで迫る。
川添は動かなかった。ただ、迫りくるエネルギーの塊に、冷徹にフォーカスリングを合わせた。
ピントが合う。解像度が極大化する。人差し指を押し込む。
カシャッ。
乾いたシャッター音が、断頭台の刃のように夜を切り裂いた。
瞬間、川添の右腕に異変が起きた。
熱い。
皮膚の下の血管が破裂する感触。指先の毛細血管が弾け、爪の間から血が噴き出し、グリップをぬるりと汚した。神経が焼き切れる臭い。
だが、衝撃は来なかった。
川添はファインダーから目を離した。目の前まで迫っていたはずのアスファルトの礫も、ねじ切れる鉄骨の音も、唐突に消失していた。
ただ、風だけが吹いている。ペネロペが、呆気にとられたように自分の手を見つめている。
ジーッ。
カメラのモーターが静かに唸る。ボディの底から、一枚の写真が吐き出された。
川添は感覚のない指で、それを引き抜いた。ジュッ、と指紋が焼ける音がした。
現像液に濡れたその写真は、高熱を発する産業廃棄物のように白い湯気を上げていた。




