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第08幕 銀色の侵入者

 夜十時。国道沿いの騒音は少しも(おとろ)えない。

 川添千秋は、六畳間の畳に胡座(あぐら)をかき、ネガフィルムを蛍光灯にかざしていた。

 階下の店舗からは、ダクトを伝って豚骨スープを煮込む重い蒸気が上がってくる。獣脂(じゅうし)とニンニクの混ざった強烈な生活臭。それ現像液の酢酸(さくさん)が混ざり、部屋の空気は吐き気を催すほどの粘度(ねんど)を持っていた。

「……ピントは来てる」

 川添は(ひと)りごち、ルーペを畳に置いた。昼間、校庭で撮った写真だ。飯野愛恵。遠くから望遠レンズで切り取った彼女の横顔は、人間特有の生気(せいき)欠落(けつらく)している。

 彼はマグカップに手を伸ばした。冷めたコーヒーの表面に、薄い油膜が浮いている。

 その時だった。

 フッ、と音が死んだ。

 国道を走るトラックのタイヤ音も、つけっぱなしのテレビの笑い声も、換気扇の回る低い(うな)りも、唐突(とうとつ)に消失した。

 静寂ではない。真空パックされたような、鼓膜(こまく)に対する強烈な閉塞感(へいそくかん)

 ボフッ。

 湿った音がして、川添の耳の奥で何かが詰まった。

「……あ?」

 異変に気づくより早く、鼻腔(びく)を満たしていた豚骨の臭いが消し飛んだ。代わりに充満(じゅうまん)したのは、コピー機の排熱を百倍に濃縮(のうしゅく)したような、鼻の粘膜(ねんまく)をチリチリと焼くオゾンの刺激臭だ。

 舌の上が痺れる。鉄の味。

 窓ガラスが鳴り始めた。風ではない。ビリビリ、ビリビリ。ガラスの分子(ぶんし)が悲鳴を上げている。

 アルミサッシが(ゆが)み、鍵がかかったままのクレセント錠が、飴細工(あめざいく)のようにねじ切られて弾け飛んだ。

 窓が開く。

 そこに、銀色の何かが浮いていた。

 飯野愛恵ではない。顔の造作(ぞうさく)は同じだが、髪の色素(しきそ)が完全に抜け落ち、水銀のように輝く銀髪へと変貌(へんぼう)している。

 瞳は赤かった。暗室のセーフライトのような、人工的な赤色が闇の中で点灯している。

「見つけた」

 声がした。言葉として聞こえたのではない。頭蓋骨(ずがいこつ)が直接振動し、脳髄(のうずい)を揺らす。

 彼女が部屋に足を踏み入れた瞬間、六畳間の空気がセメントのように固まった。

 重い。

 肺が膨らまない。まるで部屋ごと深海に沈められたように、肋骨(ろっこつ)が内側へめり込む圧迫感(あっぱくかん)

 川添は口をパクパクと開閉させた。喉の奥が引きつり、ヒューヒューと間抜けな音が漏れる。

映鏡(フレフィ)。貴様が持っているな」

 彼女――ペネロペは、畳の上を歩かなかった。爪先(つまさき)が床から数センチ浮いている。

 彼女の周囲だけ、時間が止まっている。漂っていた(ほこり)が空中で静止(せいし)し、畳のイグサが凍りついたように変色していく。

 川添の全身の毛穴が、氷水を浴びたように収縮(しゅうしゅく)して閉じきる。

 逃げろ。窓から飛ぶか、階段へ走るか。脳が生存ルートを演算するより速く、脊髄(せきずい)が勝手に筋肉を収縮させた。

 川添は、胎児(たいじ)のように丸まり、両腕で腹の下を(かば)った。

 守ったのは、心臓でも頭部でもない。黒い一眼レフカメラだ。

 肋骨がきしむほどの圧迫感の中で、彼の手指は痙攣(けいれん)するように動き、フィルムの巻き上げクランクの硬さを確認していた。

 呼吸が止まることよりも、今日のネガが感光して「データ」が消えることを、この破損した肉体は何よりも恐れていた。

「渡せ。さもなくば、器ごと砕く」

 ペネロペが右手を上げる。その指先から、黒い霧のようなものが立ち昇り、天井の蛍光灯を侵食(しんしょく)していく。

 チカチカと明滅(めいめつ)する光の下、彼女の白い肌は死体のように蒼白(あおじろ)く、血管が透けて見えた。

 美しい変身ヒロインではない。そこにいるのは、放射能汚染区域の中心に立つような、ただの「災厄(さいやく)」だった。

 逃げ場のない狭い部屋で、濃厚(のうこう)な死の臭いが、川添の気管支(きかんし)を犯し始めていた。

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