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第07幕 遅延する音声

 放課後のチャイムが鳴り終わると、校舎裏には急速に静寂が満ちた。

 西日が長く伸び、焼却炉(しょうきゃくろ)のコンクリート壁に濃い影を落としている。風向きのせいか、保健室の方から(ただよ)ってくる消毒液のツンとした刺激臭が、湿った土の匂いと混ざり合って鼻についた。

 川添千秋は、飯野愛恵の背中を追っていた。彼女は校舎の死角となる、渡り廊下の下で立ち止まった。

 振り返る。

 その動作に予備動作はない。回転台に乗せられたマネキンのように、上半身だけが滑らかにこちらを向く。

 逆光。

 彼女の顔が影になり、表情が読み取れない。ただ、陶器(とうき)のように白い肌だけが、夕暮れの中でも青白く浮き上がっている。

「……何の用ですか」

 声がした。川添は一歩踏み出した足を止めた。

 ズレている。

 今、彼女の唇が「か」の形で閉じた。そのコンマ数秒後、虚空(こくう)から遅れて音声だけが鼓膜(こまく)に届いたのだ。

 映像と音声の同期エラー。

 音は聞こえた。だが、その音には肉声特有の湿り気がない。声帯(せいたい)が震え、喉の粘膜(ねんまく)()れ合うノイズが完全に除去された、安物のスピーカーから出力されたような平坦な波形。

「取材だ。君のことを聞きたい」

 川添は強引に言葉を継いだ。昨夜の橋の上での出来事。君は何者なのか。あの鎧は何か。

 飯野は無表情のまま、(またた)きもせずに川添を見つめ返していた。その視線には光がない。瞳孔(どうこう)のサイズが一定のまま固定され、ただレンズのように対象を捉えている。

「私に関わらないでください」

 彼女が言った。今度ははっきりと見た。

 ズレている。

 口が「わ・た・し」の形に動いて閉じる。そのコンマ数秒後、虚空から遅れて「私」という音声が鼓膜に届いた。

 映像と音声の同期エラー(ラグ)。衛星中継の遅延。あるいは、壊れかけたビデオデッキの映像。

「あなたのためです。死にますよ」

 まただ。「死にますよ」という口の動きが終わり、唇が結ばれた後に、音声だけが遅れて響く。

 川添は無意識に自分の耳を(てのひら)で叩いた。水が入った時のように、自分の耳がおかしいのではないかと疑ったのだ。だが、耳鳴りはない。目の前の現象だけが、物理的な時間の流れを無視している。

 川添の平衡感覚(へいこうかんかく)が狂った。

 地面が急に斜めになったような錯覚。彼女の言葉の意味など頭に入ってこない。ただ、視覚と聴覚の不一致が、三半規管(さんはんきかん)を激しく揺さぶっていた。

 胃の()が裏返るような吐き気が込み上げる。川添の口の中に、どろりとした唾液(だえき)が大量に分泌された。

「おい、待て。今の声……」

「さようなら」

 飯野は(きびす)を返した。その足音すらおかしい。ローファーがアスファルトを叩く「カツン」という音が、足が地面から離れた瞬間に鳴る。

 川添は追いかけようとしたが、足が動かなかった。恐怖ではない。深刻な乗り物酔いによって、足元のコンクリートが泥沼のように柔らかく感じられ、立っているのがやっとだったからだ。

 彼は渡り廊下の柱にしがみつき、何度も首を振った。キーンという高い電子音が、消毒液の臭いと共に脳髄(のうずい)にこびりついて離れなかった。

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