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第50幕 別離の重力

 屋上に出た瞬間、川添千秋の呼吸器は、物理的な圧力によって機能を停止させられた。

 ゴオォォォォォォォ!

 大気が悲鳴を上げている。それは単なる気象現象としての風ではなかった。

 頭上に迫る巨大な「月」の質量と、足元の「地球」の質量が、互いの重力圏(じゅうりょくけん)を奪い合うことで発生した、空間そのものの(きし)みだ。

 立っていられない。川添は、()いつくばるようにしてテラスの石畳(いしだたみ)にしがみついた。

 痛い。

 暴力的な乾燥した気流が、眼球の水分を一瞬で奪い去る。(またた)きをするたびに、(まぶた)の裏が乾いた角膜(かくまく)と擦れ合い、ジャリジャリとした摩擦音(まさつおん)を立てる。

 涙腺(るいせん)が反応しても、分泌された液体は頬を伝う前に風に千切られ、蒸発していく。

「――ッ、あ!」

 隣にいた飯野愛恵の体が、ふわりと浮いた。

 彼女だけではない。イヴェットも、意識のないペネロペも。彼女たちの革靴の底が、石畳から数センチ離れ、糸の切れた風船のように不安定に漂い始めている。

 重力異常。

 地球に属する川添の体は地面に縫い付けられているが、神力(しんりき)――月のエネルギー――に深く侵食(しんしょく)された彼女たちは、頭上に迫る「月」の引力に捕獲(ほかく)されつつあるのだ。

 川添は、震える手でカメラ「映鏡(フレフィ)」を構えた。

 ファインダーの中、レンズの「亀裂(きれつ)」が世界を両断するラインと重なる。ここでシャッターを切れば、世界は物理的に切断され、正常化する。

 だが、その瞬間、二つの磁石が弾け合うように世界は分離する。

 空中に浮いている彼女たちは、どちらに落ちる?

 彼女たちの靴底は、既に地球を離れている。撮れば、世界は助かる。だが、彼女たちは月へ弾き出され、永遠にロストする。

「……ぐ、ぅ」

 指が動かない。壊死(えし)した人差し指ではない。まだ神経が繋がっているはずの中指が、氷点下の鉄に触れたように硬直(こうちょく)して、シャッターボタンの上で痙攣(けいれん)していた。

 脳は「押せ」と命令信号を送っている。だが、脊髄反射(せきずいはんしゃ)レベルで肉体が拒絶していた。

 ふと、鼻の奥に、あの臭いが(よみがえ)った。

 現像室の、ツンとする酢酸(さくさん)の臭い。

 誰とも会話せず、湿気た畳の上で膝を抱える、無音の時間。彼女たちがいなくなれば、世界はまた、あの彩度(さいど)の低い、現像液の臭いしかしない「正しさ」に戻る。

 その触覚的(しょっかくてき)な記憶が、川添の指の筋肉を物理的にロックしていた。

「――!」

 風の向こうで、宙に浮いた飯野が何かを叫んでいた。

 音は聞こえない。轟音(ごうおん)鼓膜(こまく)を押し込み、全ての可聴域(かちょういき)を埋め尽くしている。

 彼女の口がパクパクと動く様は、水槽の中の魚のように頼りなく、意味のある言語として構成されない。

 ただ、彼女の長い黒髪が、暴風に(あお)られて生き物のようにのたうち回り、川添の頬を鞭のように激しく打ち据えた。

 ピシッ、ピシッ。

 乾いた痛みが走るたびに、川添は自分がシャッターを押せずに立ち尽くしているという事実を、皮膚感覚として刻み込まれた。

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