第05幕 暗室の審判
翌朝。報道社の暗室は、逃げ場のない酢酸の粒子で満たされていた。
赤色のセーフライトだけが灯る狭い空間。川添千秋は、バットに浸した印画紙を竹のピンセットで揺らしていた。
右手の指先には包帯が巻かれている。昨夜、救急箱にあった軟膏を塗りたくったが、火傷の熱は引いていない。包帯の下で、膨れ上がった皮膚が自身の脈拍に合わせて僅かに収縮し、ガーゼの繊維を内側から圧迫していた。
「……出たな」
独り言は、換気扇の回る低いモーター音に掻き消された。
定着液から引き上げ、流水で洗った写真をクリップに吊るす。モノクロームの画像。粒子が荒い。だが、そこに写っている輪郭線は鋭利だった。
橋の上で静止した飛翔体。少女の無機質な立ち姿。川添はルーペを取り出し、まだ水滴の滴る印画紙に顔を近づけた。
少女の胸元。被写体ブレを起こしているが、刺繍されたエンブレムの形は判別できる。三本の剣と、蔦の意匠。
市崎高校の制服だ。
川添は写真の表面を指でなぞった。ドライヤーで乾燥させたはずなのに、指先に触れる感触は奇妙に生暖かく、魚の皮のようにヌルリとしていた。
指の腹に脂がつくような感覚。彼は無意識に、その指をズボンで拭った。
その時、暗室のドアが乱暴に開かれた。赤色の世界に、蛍光灯の暴力的な白い光が雪崩れ込んでくる。
瞳孔が収縮する痛み。
川添は反射的に遮光カーテンを引いた。
「川添ぇ!お前また無断で機材を持ち出したな!」
鼓膜を叩く大音量。副社長の田中だ。安物のポマードで固めた髪が、蛍光灯の下で脂ぎって光っている。
田中が怒鳴るたびに、口の端から唾液の飛沫が飛び、川添の頬に冷たく張り付いた。そこから漂うのは、整髪料と、甘ったるい粉薬が胃酸と混ざった独特の呼気だ。
「あ?なんだその手は。また酔っ払ってどこかにぶつけたのか」
田中の口がパクパクと動いている。川添は視線を田中の唇の動きに固定した。
音波としての振動は鼓膜を震わせているが、それが「言語」として脳に届かない。ラジオのチューニングがずれたようなノイズ。
川添は無意識に小指で耳の穴をほじった。キーンという高い電子音が、田中の声を遠ざけていく。
机の上に置かれた、自分の一眼レフカメラ。そのレンズの中央にある亀裂が、昨日よりも確実に深く、硝子体を蝕むように広がっていた。
「……聞いてんのか、おい」
「聞いてますよ。機材異常なし。フィルム代は給料から相殺で」
川添の口が、脳の指令を待たずに定型文を吐き出した。
カメラを手に取る。ずしりと重い。内部のメカニズムが、鉛と汚泥に入れ替わったような不自然な密度。
レンズの亀裂が、室内の蛍光灯を反射してギラリと光った。
ガラスの断面が、ドクン、ドクンと赤く明滅している。
川添は目をこすった。瞼の裏に、血管のような赤い残像が焼き付いて消えない。
「ったく、お前って奴は……その写真はなんだ」
「ゴミです。感光しました」
川添は、まだ湿った感触の残る写真をポケットの奥へねじ込んだ。
市崎高校。そこに行けば、この網膜の疼きを鎮める「被写体」に会える。
包帯の下の傷口が、心拍と同期して熱く脈打った。喉の奥が鳴り、粘着質な唾液が分泌される。
彼は田中の怒号を小指で耳をほじって物理的に遮断しながら、テーブルの下で、無意識にカメラのシャッターボタンを空押しし続けていた。
カチッ、カチッ。




