第48幕 ホルマリンの残滓
心臓を失ったアンドリュー・ウォルフガングは、糸の切れた操り人形のように、玉座の前の階段へ膝をついた。
ドサッ、という肉の落ちる重い音ではない。
カサリ。
乾燥した落ち葉が地面に触れるような、質量を感じさせない音がした。
胸の大穴からは、血液ではなく、依然として黒い霧がシュウシュウと音を立てて噴き出している。
川添千秋は、感覚のない指でカメラを構え直し、ファインダー越しにその崩落を見つめた。
アンドリューが、ゆっくりと顔を上げた。その顔は、もはや人間の皮膚の質感を持っていなかった。
精巧に作られた蝋人形が、内側からの熱で溶け出したように、端正な輪郭がドロリと歪み始めている。
彼が口を開いた。最期の言葉を紡ごうと、顎が動く。
「――ヒュ、ザラッ……」
言葉は出なかった。開かれた口腔の奥には、舌も、喉ちんこも見当たらなかった。
食道へと続く暗がりは、灰色の乾燥した砂で埋め尽くされており、そこから肺の空気が漏れる際、砂山が崩れるような乾いた摩擦音がするだけだった。
直後、部屋の空気が変質した。
ツン。
鼻の奥の粘膜を強酸で焼くような、濃厚なホルマリンの刺激臭が爆発的に膨れ上がった。
「ぐ、ッ……」
川添が反射的に息を止め、目を細めた瞬間、アンドリューの輪郭が弾けた。
サラサラサラ……。
肉体が個体としての結合を維持できなくなり、紫色の微細な粒子となって、一気に崩壊したのだ。
骨も、内臓も、血液すら残らない。そこにあったのは、彼が身につけていた高級なスーツの抜け殻と、中身だったものが変化した大量の「灰」だけだった。
ファサッ。
主を失った衣服が、重力に従って床にへたり込む。
その瞬間、あれほど強烈だったホルマリンの臭いが、スイッチを切ったように消え失せた。
だが、空気は綺麗にはならなかった。
魔法という覆いが消えたことで、戦場に充満していた「現実の悪臭」――飯野が撒いた催涙ガスの硫黄臭と、飛び散った血の鉄臭さ――だけが、生々しく鼻腔に戻ってきたのだ。
無機質な死の臭いから、有機的な汚れの臭いへ。その急激な嗅覚情報の落差に、川添の三半規管が揺らぐ。
彼はカメラを下ろし、床の抜け殻を見下ろした。胃の裏側が冷たい。動悸が激しく打っているのに、体温だけが急速に奪われていく。
ふと、頬にザラつきを感じた。先ほど舞い上がった紫色の粉が、汗ばんだ頬に付着している。
彼は左手の親指で、それを拭った。
ジャリ。
指先をこすり合わせると、無機質な粒子の感触がした。灰は指紋の溝に入り込み、何度こすっても取れない。
それは生物の死骸が残す脂ぎった感触ではなく、燃えないゴミを出した後の手が汚れた時のような、即物的な不快感そのものだった。




