第47幕 肉挽き機
ボフッ。
世界に時間が戻った。川添千秋の鼓膜が、内側から強く圧迫された。
急激な気圧変動。先ほどまで王座の間を満たしていた高密度の魔力が、「映鏡」によって一瞬で真空パックのように写真へ吸い込まれた反動で、希薄になった空間へ周囲の大気が雪崩れ込んできたのだ。
耳がツンとする。音が、津波のように戻ってくる。
だが、アンドリュー・ウォルフガングだけが、物理法則の帰還に対応できていなかった。
彼が両手を広げたまま、硬直している。本来ならば、そこには紫色の終末の光が輝き、世界を置換しているはずだった。
だが、彼の手にあるのは、ただの虚空だけだ。
その完璧な笑顔は、張り付いた仮面のように固定されたままだが、指先だけが微かに痙攣し、空気を掴もうとして空振り続けている。
処理落ち。神のような全能感が剥がれ落ち、ただの無力なタンパク質の塊に戻った瞬間。
そのコンマ一秒の隙間に、飯野愛恵という異物が滑り込んだ。
彼女の脳内には、状況の変化に対する「驚き」という変数が存在しなかった。川添がシャッターを切るという事象を、最初から確定事項として計算式に組み込んでいたかのように、彼女は既に射撃姿勢を完了していた。
彼女の右手には、銀色の大型リボルバー「銀槍」が握られている。
いや、握っているのではない。グリップから伸びた無数の微細な棘が、彼女の手首の皮膚を突き破り、橈骨神経と物理的に癒着して、赤黒く脈動していた。
狙いは心臓。ためらいも、宣告もない。彼女は、事務作業の一つとして、引き金を引いた。
グシャッ。
巨大な肉挽き機に骨付き肉を放り込んだ時のような、低く粘着質な破壊音。それは、映画で聞くような乾いた銃声ではなかった。濡れた雑巾をコンクリートの床に全力で叩きつけたような、生理的な重さを持った音だ。
高密度の神力を練り上げた弾丸が、音速を超えてアンドリューの胸骨を粉砕し、物理的な心臓をねじ切った音だ。
「ガ、ァ……ッ!?」
アンドリューの体が、見えない巨人に殴られたようにくの字に折れ、後方へと吹き飛ばされた。
バキッ。
同時に、乾いた音が響いた。飯野の右腕だ。
人間が扱える限界を超えた反動が、彼女の華奢な上腕骨を、枯れ枝のようにへし折ったのだ。
右腕が、肘のあたりであり得ない角度に折れ曲がり、ぶらりと垂れ下がった。
だが、飯野は悲鳴を上げなかった。眉一つ動かさず、痛覚中枢が存在しない人形のように、ただ冷徹に破壊の結果を目視確認している。
「……あ」
川添は、その光景を見て、瞬きを忘れた。
折れた骨が皮膚を押し上げているのが見える。痛そうだ、とは微塵も思わなかった。
ただ、自分の骨を砕いてまで、敵を破壊するという機能を全うした彼女の姿に、背筋がゾクリと粟立った。
目を逸らすべき惨状なのに、視線が吸い寄せられて離れない。その壊れた精密機械のような機能美に、脳髄が痺れるような倒錯した興奮を覚えている。
硝煙の匂いに混じって、濃厚な鉄錆と、生臭い油の臭いが漂ってくる。
胸を撃ち抜かれたアンドリューが、玉座の前の階段に崩れ落ちた。彼が胸の穴を押さえる。
だが、指の間から溢れ出したのは、赤い血ではなかった。
黒い霧。
彼の肉体を内側から満たしていた、蟲のような不定形の闇が、傷口からシュウシュウと音を立てて漏れ出していた。




