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45/52

第45幕 骨を砕く合焦

 世界が止まった。

 アンドリューの頭上で、紫色の光が臨界点(りんかいてん)に達した瞬間、川添千秋の視界にある全ての物理現象が、凍りついたように静止した。

 舞い上がる石灰の粉塵(ふんじん)が、空中で星雲(せいうん)のように固定されている。崩れ落ちる瓦礫(がれき)が、重力から解放されたように中空で停止している。

 それは魔法による時間の停止ではない。死を前にした過剰なアドレナリン分泌によって、川添の脳内処理速度が致死的な領域まで加速し、知覚される時間感覚を引き伸ばしているだけの生理現象だった。

 唯一、動いているものがある。

 アンドリューの頭上で膨張(ぼうちょう)を続ける「空間の腫瘍(しゅよう)」。紫色の光が粘着質(ねんちゃくしつ)(うごめ)き、空間の膜を食い破って、向こう側にある「ヴォイド」を吐き出そうとしている。

 撮る。

 それ以外の思考プロセスは、川添の脳から物理的に焼き切れていた。彼はカメラを構え直そうとした。

 だが、右手が動かなかった。

 グリップを握る人差し指と中指が、炭のように黒く変色し、完全に壊死(えし)している。度重なる「映鏡(フレフィ)」の使用と、先ほどの至近距離での被曝(ひばく)。それらの代償が、川添の末端神経を物理的に切断し、筋肉を硬直(こうちょく)させていたのだ。

 動け。脳が電気信号を送る。だが、指はピクリとも反応しない。

 それは自分の肉体の一部というよりも、腐って乾燥した木の枝が、手首の先に接着されているだけの異物のように感じられた。

「……ジュルッ、ジュルリ」

 静寂(せいじゃく)の中で、湿った音が鼓膜(こまく)を震わせた。

 カメラだ。川添の手首と癒着(ゆちゃく)した「映鏡(フレフィ)」が、餌を求めるようにドクンドクンと脈動している。レンズの中央に走る「亀裂(きれつ)」が、生き物の口のように微細に開閉し、ポンプのように収縮(しゅうしゅく)して、川添の動脈から血液を吸い上げているのだ。

 血管が内側からしごかれる感触。背筋がゾクゾクと震え、強張(こわば)っていた肩の筋肉が弛緩(しかん)する。

 血液が減るたびに、意識が透明になっていく。人間という不純な器が()ぎ落とされ、純粋な記録装置へと置換されていく、倒錯(とうさく)した生理的充足。

 腫瘍が裂ける。光が漏れる。

 今だ。

 川添は、動かない右手を左手で持ち上げ、震える口元へ運んだ。

 ガリッ。

 彼は、壊死した黒い人差し指を、奥歯で思い切り噛んだ。

 味はしない。古びた革靴や、乾燥した木片を噛み砕いているような、パサついた繊維の感触。彼はそのまま、顎の力を使って、無理やり指をシャッターボタンの上へと誘導した。

 位置は合った。だが、押せない。

「ぐ、う、ぅぅぅッ!」

 川添は左手でカメラのボディを下から支え、動かない右手の甲に、全体重を乗せて押し込んだ。

 メキッ、バキッ。

 乾いた破砕音(はさいおん)が、頭蓋骨(ずがいこつ)に直接響く。人差し指の第二関節が、逆方向にへし折れた音だ。

 折れた骨の鋭利(えいり)な断面が内側から肉を突き破り、その先端がシャッターボタンに突き刺さる。

 激痛。

 脳髄(のうずい)が白く弾けるほどのスパークが走り、停止していた神経回路を無理やり焼き切って接続した。

 ファインダーの中、ピントリングが吸い付くように「崩壊の核」を捉える。

 救済などどうでもいい。ただ、この網膜(もうまく)を焼くほどに鮮烈な「終わりの光」を、誰にも渡さず、自分だけのフィルムに焼き付けたい。

 そのどす黒い渇望(かつぼう)に従って、川添の口元が吊り上がり、痙攣(けいれん)した。

 ドォォォォォォン……!

 シャッターが落ちた。それは機械音ではない。(さび)びついた巨大な断頭台(だんとうだい)の刃が落下し、世界の首を物理的に切断する、決定的な破壊の音だった。

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