第45幕 骨を砕く合焦
世界が止まった。
アンドリューの頭上で、紫色の光が臨界点に達した瞬間、川添千秋の視界にある全ての物理現象が、凍りついたように静止した。
舞い上がる石灰の粉塵が、空中で星雲のように固定されている。崩れ落ちる瓦礫が、重力から解放されたように中空で停止している。
それは魔法による時間の停止ではない。死を前にした過剰なアドレナリン分泌によって、川添の脳内処理速度が致死的な領域まで加速し、知覚される時間感覚を引き伸ばしているだけの生理現象だった。
唯一、動いているものがある。
アンドリューの頭上で膨張を続ける「空間の腫瘍」。紫色の光が粘着質に蠢き、空間の膜を食い破って、向こう側にある「無」を吐き出そうとしている。
撮る。
それ以外の思考プロセスは、川添の脳から物理的に焼き切れていた。彼はカメラを構え直そうとした。
だが、右手が動かなかった。
グリップを握る人差し指と中指が、炭のように黒く変色し、完全に壊死している。度重なる「映鏡」の使用と、先ほどの至近距離での被曝。それらの代償が、川添の末端神経を物理的に切断し、筋肉を硬直させていたのだ。
動け。脳が電気信号を送る。だが、指はピクリとも反応しない。
それは自分の肉体の一部というよりも、腐って乾燥した木の枝が、手首の先に接着されているだけの異物のように感じられた。
「……ジュルッ、ジュルリ」
静寂の中で、湿った音が鼓膜を震わせた。
カメラだ。川添の手首と癒着した「映鏡」が、餌を求めるようにドクンドクンと脈動している。レンズの中央に走る「亀裂」が、生き物の口のように微細に開閉し、ポンプのように収縮して、川添の動脈から血液を吸い上げているのだ。
血管が内側からしごかれる感触。背筋がゾクゾクと震え、強張っていた肩の筋肉が弛緩する。
血液が減るたびに、意識が透明になっていく。人間という不純な器が削ぎ落とされ、純粋な記録装置へと置換されていく、倒錯した生理的充足。
腫瘍が裂ける。光が漏れる。
今だ。
川添は、動かない右手を左手で持ち上げ、震える口元へ運んだ。
ガリッ。
彼は、壊死した黒い人差し指を、奥歯で思い切り噛んだ。
味はしない。古びた革靴や、乾燥した木片を噛み砕いているような、パサついた繊維の感触。彼はそのまま、顎の力を使って、無理やり指をシャッターボタンの上へと誘導した。
位置は合った。だが、押せない。
「ぐ、う、ぅぅぅッ!」
川添は左手でカメラのボディを下から支え、動かない右手の甲に、全体重を乗せて押し込んだ。
メキッ、バキッ。
乾いた破砕音が、頭蓋骨に直接響く。人差し指の第二関節が、逆方向にへし折れた音だ。
折れた骨の鋭利な断面が内側から肉を突き破り、その先端がシャッターボタンに突き刺さる。
激痛。
脳髄が白く弾けるほどのスパークが走り、停止していた神経回路を無理やり焼き切って接続した。
ファインダーの中、ピントリングが吸い付くように「崩壊の核」を捉える。
救済などどうでもいい。ただ、この網膜を焼くほどに鮮烈な「終わりの光」を、誰にも渡さず、自分だけのフィルムに焼き付けたい。
そのどす黒い渇望に従って、川添の口元が吊り上がり、痙攣した。
ドォォォォォォン……!
シャッターが落ちた。それは機械音ではない。錆びついた巨大な断頭台の刃が落下し、世界の首を物理的に切断する、決定的な破壊の音だった。




