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第44幕 有毒な光

 空気が変質した。先ほどまで王座の間を満たしていた化学薬品の冷たく湿った煙が、唐突(とうとつ)に沸騰したように熱を帯び、乾燥し始めた。

「――ギ、ギィィィィィ……」

 白濁した煙の奥から、音が漏れ出してきた。

 それは人間の声帯(せいたい)から発せられる言語構造を持っていなかった。濡れたガラスの表面を、鋭利(えいり)な金属の爪で強く()り上げたような、神経を直接やすりで削る高周波のノイズ。

 アンドリュー・ウォルフガングだ。視界を奪われた彼は、パニックに陥るどころか、その場で直立し、周囲の空間ごと全てを消し去るための「詠唱」を開始していた。

 ビリビリ。

 川添千秋の腕の産毛(うぶげ)が逆立つ。強烈な静電気。空間の密度(みつど)が異常な速度で高まっている。

 大気中の電子が励起(れいき)され、どこからともなくオゾン特有の生臭さと、古い家電製品がショートした時のような絶縁体(ぜつえんたい)の焦げる臭いが漂い始めた。

 熱い。

 ただ立っているだけで、皮膚の水分が奪われ、ジリジリと焼ける音が聞こえる気がする。

 煙の向こうで、紫色の光が脈動を始めた。

 それは、物語の中で英雄を助けるような希望の光ではなかった。殺菌灯。あるいは、遮蔽壁(しゃへいへき)のない原子炉から漏れ出るチェレンコフ光。

 直視しただけで網膜(もうまく)の細胞を焼き、DNA配列を物理的に切断するような、毒々しい輝きだった。

「ッ……」

 川添は反射的に目を細めたが、ファインダーから目を離すことはできなかった。

 その時だった。

 ツゥー。

 鼻の奥から、大量の温かい液体が噴き出した。鼻水ではない。口の中に、(さび)びた鉄の味が広がる。

 鼻血だ。

 この空間に充満(じゅうまん)した高濃度の神力(しんりき)――もはや放射線に近い汚染物質――を至近距離で浴びた負荷で、鼻腔(びく)粘膜(ねんまく)が耐えきれずに崩壊し、溶け出している。

 拭う。だが、手の甲で拭っても、拭っても、温かい赤黒い液体は止まることなく溢れ出し、(あご)を伝ってカメラへと滴り落ちる。

 グリップが血で濡れて、ヌルヌルと滑る。自分の体が、内側から壊れていく感触。

 逃げろ。

 膝の関節がガクガクと笑い、膀胱の括約筋(かつやくきん)収縮(しゅうしゅく)する。今すぐ背を向けて、全力で階段を駆け下りなければ、数秒後には自分もあの紫色の粒子の一部になって霧散(むさん)する。

 肉体が生存を求めて悲鳴を上げ、後退しようと重心を後ろへずらす。

 だが、川添の「指」だけは違った。

 恐怖で硬直(こうちょく)する全身とは裏腹に、カメラを握る右手の人差し指だけが、まるで別の寄生生物のように自律駆動(じりつくどう)し、シャッターボタンの上を這い回っていた。

 撮らなければ。

 いや、そんな言語化された思考すらない。ただ、目の前で空間がねじ切れようとしている現象に対し、記録媒体を押し付けずにはいられない「(ごう)」だけが、壊死(えし)して黒ずんだ指を動かしていた。

 アンドリューの頭上に、煙を吸い込みながら肥大化する、巨大な「空間の腫瘍(しゅよう)」が形成されつつある。

 世界の終わり。その決定的な瞬間を、フィルムという物理媒体に焼き付けたい。

 川添は、血で滑るグリップを、指の骨がきしむほどの力で握り直した。

 息ができない。肺が焼ける痛みも、口の中の血の味も、すべてがファインダーの中の一点へと収束(しゅうそく)していく。

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