表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

43/50

第43幕 ガラス片の豪雨

「鏡を……その目を、塞げッ!」

 川添千秋の喉から、声帯(せいたい)粘膜(ねんまく)を引きちぎるような絶叫が、血の味と共に(ほとばし)った。

 その音波が王座の間の冷たい空気を震わせるよりも速く、飯野愛恵は動いていた。

 彼女の脳内には、川添という「使用者ユーザー」がトリガーを引いた瞬間、倫理的な躊躇(ためら)いや安全マージンの計算といった人間的な処理プロセスは一切介在しなかった。ただ、最適化された殲滅(せんめつ)プログラムだけが、脊髄反射(せきずいはんしゃ)として実行される。

 彼女は、自らの手首の神経と癒着(ゆちゃく)し、赤黒い脈動を繰り返す「銀槍(ブレット)」を、まるで不要になった臓器のように床へ放り捨てた。

 腰のタクティカルポーチから灰色の円筒缶を引き抜く。迷いはない。彼女はその安全ピンを奥歯で噛み砕き、ガリッという硬質(こうしつ)な音と共に引き抜くと、勢いよく自分たちの足元へと叩きつけた。

 ュゴオオオオオッ!

 爆発音ではなかった。それは、高圧ガスが弁の隙間から無理やり噴出する、耳障りなノイズだった。

 瞬時に、王座の間が粘着質(ねんちゃくしつ)な白煙によって飲み込まれていく。視界が白濁し、遠近感(えんきんかん)消失(しょうしつ)する。

「……ご、ッ、ァ」

 川添は反射的に袖で口と鼻を覆ったが、遅かった。吸い込んだ空気が、喉の奥の柔らかな粘膜を、強酸で洗うように焼き尽くす。

 熱い。

 食道が痙攣(けいれん)し、肺胞(はいほう)が縮こまるのを感じる。

 硫黄(いおう)。腐った卵。そして劣化した現像液を煮詰めたような、高濃度の化学薬品の味。

 涙腺(るいせん)が崩壊し、熱い涙が頬を伝う。生物の呼吸器系を物理的に破壊する毒ガスだ。

 だが、物理的な破壊音は止まらなかった。

 ギャリッ、バラバラバラ……!

 数千枚の鏡を一度に粉砕したような、神経を直接やすりで削る鋭利な破砕音。白い地獄の中で、頭上から豪雨のような音が降り注ぐ。飯野は煙幕の展開と同時に、アンドリューの背後にあった巨大なステンドグラスに向け、手近な瓦礫(がれき)投擲(とうてき)していたのだ。

 粉砕された無数の色付きガラス片が、重力に従って降り注ぐ。

 白濁した視界の中で、床に散乱した破片が、天井に残った照明の光を乱反射(らんはんしゃ)し、チカチカと不規則なストロボのように明滅(めいめつ)を始めた。

「ゴボッ、オェ……!」

 煙の向こうで、これまで優雅な沈黙を保っていたアンドリューが、初めて盛大に咳き込んだ。

 それは紳士的な咳払いではなく、肺の奥から汚泥(おでい)を無理やり絞り出すような、湿った生理的な音だった。

 彼の完璧だったスーツが汚れ、呼吸が乱れる。その音が、川添の鼓膜(こまく)にはこの上ない福音(ふくいん)として響いた。

 ざまあみろ。

 川添もまた、呼吸をするたびに気管支(きかんし)が焼けただれる激痛に襲われ、地面に這いつくばっていた。だが、彼の内臓は、生物としての常識から逸脱した、矛盾した反応を示していた。

 激痛で跳ね上がるはずの心拍数が、逆にゆっくりと、深く、沈静化し始めていたのだ。

 ドクン、ドクン。

 脈拍が整っていく。強張(こわば)っていた肩の筋肉が弛緩し、指先の震えが止まる。

 鼻腔(びく)を満たす、この「悪臭」。

 ツンとする刺激臭。酸素の欠乏。硫黄と酢酸(さくさん)充満(じゅうまん)

 その化学成分を検知した瞬間、彼の脳裏に、長年引きこもっていた薄暗い「現像室ダークルーム」の触感が、強烈な身体感覚としてフラッシュバックしたのだ。

 窓のない、薬品臭い密室。そこで死の記録と向き合い続けた数千時間の記憶が、この致死性のガスを「故郷の空気」だと誤認させた。

 肺が焼ける。痛い。

 だが、その痛みこそが、川添の気管支をリラックスさせ、肺胞を全開にさせた。彼は充血(じゅうけつ)した目で涙を流しながら、毒を貪るように大きく息を吸い込んだ。汚れた空気が血中に溶け込み、全身の細胞が歓喜して震える。

 彼はカメラを抱え直し、視覚情報を放棄して、足元の感覚だけに意識を集中させた。

 ジャリ、ジャリ。

 靴底が、床に散らばったガラス片を踏み砕く。その硬く、不快な感触だけが、この白い地獄において彼が直立するための、唯一の足場だった。

 アンドリューの「左目」は鏡を探して彷徨(さまよ)っているはずだ。だが、この無限に乱反射するガラスの破片と、視界を塞ぐ有毒な煙が、奴の座標計算を狂わせている。

 今だ。

 川添は、肺の痛みを快感のように噛み締めながら、煙の奥にある「熱源」へ向かって、一歩を踏み出した。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ