第43幕 ガラス片の豪雨
「鏡を……その目を、塞げッ!」
川添千秋の喉から、声帯の粘膜を引きちぎるような絶叫が、血の味と共に迸った。
その音波が王座の間の冷たい空気を震わせるよりも速く、飯野愛恵は動いていた。
彼女の脳内には、川添という「使用者」がトリガーを引いた瞬間、倫理的な躊躇いや安全マージンの計算といった人間的な処理プロセスは一切介在しなかった。ただ、最適化された殲滅プログラムだけが、脊髄反射として実行される。
彼女は、自らの手首の神経と癒着し、赤黒い脈動を繰り返す「銀槍」を、まるで不要になった臓器のように床へ放り捨てた。
腰のタクティカルポーチから灰色の円筒缶を引き抜く。迷いはない。彼女はその安全ピンを奥歯で噛み砕き、ガリッという硬質な音と共に引き抜くと、勢いよく自分たちの足元へと叩きつけた。
ュゴオオオオオッ!
爆発音ではなかった。それは、高圧ガスが弁の隙間から無理やり噴出する、耳障りなノイズだった。
瞬時に、王座の間が粘着質な白煙によって飲み込まれていく。視界が白濁し、遠近感が消失する。
「……ご、ッ、ァ」
川添は反射的に袖で口と鼻を覆ったが、遅かった。吸い込んだ空気が、喉の奥の柔らかな粘膜を、強酸で洗うように焼き尽くす。
熱い。
食道が痙攣し、肺胞が縮こまるのを感じる。
硫黄。腐った卵。そして劣化した現像液を煮詰めたような、高濃度の化学薬品の味。
涙腺が崩壊し、熱い涙が頬を伝う。生物の呼吸器系を物理的に破壊する毒ガスだ。
だが、物理的な破壊音は止まらなかった。
ギャリッ、バラバラバラ……!
数千枚の鏡を一度に粉砕したような、神経を直接やすりで削る鋭利な破砕音。白い地獄の中で、頭上から豪雨のような音が降り注ぐ。飯野は煙幕の展開と同時に、アンドリューの背後にあった巨大なステンドグラスに向け、手近な瓦礫を投擲していたのだ。
粉砕された無数の色付きガラス片が、重力に従って降り注ぐ。
白濁した視界の中で、床に散乱した破片が、天井に残った照明の光を乱反射し、チカチカと不規則なストロボのように明滅を始めた。
「ゴボッ、オェ……!」
煙の向こうで、これまで優雅な沈黙を保っていたアンドリューが、初めて盛大に咳き込んだ。
それは紳士的な咳払いではなく、肺の奥から汚泥を無理やり絞り出すような、湿った生理的な音だった。
彼の完璧だったスーツが汚れ、呼吸が乱れる。その音が、川添の鼓膜にはこの上ない福音として響いた。
ざまあみろ。
川添もまた、呼吸をするたびに気管支が焼けただれる激痛に襲われ、地面に這いつくばっていた。だが、彼の内臓は、生物としての常識から逸脱した、矛盾した反応を示していた。
激痛で跳ね上がるはずの心拍数が、逆にゆっくりと、深く、沈静化し始めていたのだ。
ドクン、ドクン。
脈拍が整っていく。強張っていた肩の筋肉が弛緩し、指先の震えが止まる。
鼻腔を満たす、この「悪臭」。
ツンとする刺激臭。酸素の欠乏。硫黄と酢酸の充満。
その化学成分を検知した瞬間、彼の脳裏に、長年引きこもっていた薄暗い「現像室」の触感が、強烈な身体感覚としてフラッシュバックしたのだ。
窓のない、薬品臭い密室。そこで死の記録と向き合い続けた数千時間の記憶が、この致死性のガスを「故郷の空気」だと誤認させた。
肺が焼ける。痛い。
だが、その痛みこそが、川添の気管支をリラックスさせ、肺胞を全開にさせた。彼は充血した目で涙を流しながら、毒を貪るように大きく息を吸い込んだ。汚れた空気が血中に溶け込み、全身の細胞が歓喜して震える。
彼はカメラを抱え直し、視覚情報を放棄して、足元の感覚だけに意識を集中させた。
ジャリ、ジャリ。
靴底が、床に散らばったガラス片を踏み砕く。その硬く、不快な感触だけが、この白い地獄において彼が直立するための、唯一の足場だった。
アンドリューの「左目」は鏡を探して彷徨っているはずだ。だが、この無限に乱反射するガラスの破片と、視界を塞ぐ有毒な煙が、奴の座標計算を狂わせている。
今だ。
川添は、肺の痛みを快感のように噛み締めながら、煙の奥にある「熱源」へ向かって、一歩を踏み出した。




