第41幕 観測者の介入
「神盾」が砕け散った。
その事実は、視覚情報よりも先に、平衡感覚の喪失として川添千秋の肉体を襲った。
王座の間には、砕けたクリスタルの破片が膝下まで埋まるほどの深さで堆積し、まるで凍てついた宝石の墓場のような様相を呈している。
舞い上がった石灰の粉塵が、破壊された天井から差し込む冷たい月光を乱反射させ、視界全体を白く濁らせていた。
その白い霧の向こうで、アンドリュー・ウォルフガングが優雅に指先を払い、スーツについた微かな汚れを落とす動作だけが、スローモーションのように網膜に焼き付いている。
ガクガクと膝が笑う。逃げろ。大腿四頭筋が痙攣し、後退を命じている。
だが、川添の身体は、その脳からの電気信号を無視して、まるで何かに襟首を掴まれたかのように前へと引きずり出された。
一歩、踏み出す。
ジャリ、ゴリッ。
靴底が鋭利なクリスタルの刃を踏み砕くたびに、足裏から頭蓋骨まで不快な振動が突き抜ける。
それはガラスが割れる音ではなく、乾燥した人骨を臼歯ですり潰すような、神経を直接やすりで削る咀嚼音だった。
「……イヴェ、ット」
自分の口から漏れた名前が、誰のものなのか一瞬分からなかった。
喉が熱い。食道から胃袋にかけて、溶けた鉛を無理やり流し込まれたような灼熱感がある。
オ、エッ……。
川添は走りながらえずいた。気持ちが悪い。
脳のシワの隙間に、他人の指が強引に入り込み、そこにあった「自分」の記憶を掻き回して、「イヴェットへの愛」という異物を塗りたくっている。
ナッシュ・セイゲル。かつて彼女を愛した男の残留思念が、汚水のように逆流し、川添という器を内側から食い破ろうとしていた。
それでも、足は止まらなかった。
白化したペネロペが倒れ、イヴェットが膝をついているその場所へ、川添は磁石に吸い寄せられる砂鉄のように走る。
アンドリューと目が合う。
ツン、と鼻の粘膜が焼ける。
彼から発散される強烈なホルマリン(防腐剤)の臭気が、戦場の硝煙や血の匂いを塗り潰し、生物としての生存許容範囲を超えたアラートを全身の毛穴から発報させる。
怖い。帰りたい。物陰で震えていたい。
だが、今の川添を突き動かしているのは、ナッシュの熱病のような愛だけではなかった。
『ここで死なせれば、撮れなくなる』
熱病のように沸騰する脳の片隅で、その一点だけが氷柱のように冷え切っていた。
イヴェットが死ねば、被写体が欠損する。構図が崩れる。だから守れ。
標本の損壊を防ぐ学芸員のような冷徹さが、川添の運動神経をハッキングした。
「う、あ、あああッ!」
川添は獣のような咆哮を上げながら、イヴェットの前へと躍り出た。
右目は熱い涙を流し、視界が滲んでいる。だが、左目は乾燥しきった角膜を見開き、瞬き一つせず、倒れた彼女と敵との距離をレーザーのように測距していた。
涙を流す右目と、露出を測る左目。二つの眼球が別々の生き物のように動き、脳の正中線を裂くような激痛が走る。
ゴッ!
耐えきれず、川添は走りながら、握りしめたカメラのマグネシウム合金のボディで、自身のこめかみを強く殴りつけた。
鈍い音が骨に響く。皮膚が裂け、熱い液体が目尻に垂れて視界を赤く染める。
痛い。
だが、その鋭利な痛みだけが、拡散しかけた自我をギリギリで繋ぎ止める楔になった。
カメラを構える。ファインダー越しの世界だけが、唯一の真実だ。
川添は、目の前に立つアンドリューという絶対的な死の象徴に対し、武器ではなくレンズを向けた。
「逃げろ!」
口はそう叫んでいた。だが、川添の右手の人差し指は、その言葉とは裏腹に、無意識に露出計のダイヤルを回し、この絶望的な光景の光量が、撮影に適しているかを確認していた。
助けるために飛び出したのか、撮るために飛び出したのか。その境界線は、もはや完全に溶解していた。
「……おや」
アンドリューが、初めて興味深そうに眉を上げた。その表情は、実験動物が想定外の行動を取った時の研究者のそれに似ていた。
川添の全身から、嫌な汗が吹き出す。心臓が早鐘を打ち、肋骨がきしむほど激しく脈打っている。
だが、不思議と手ブレはなかった。
彼の肉体は生理的拒絶で崩壊寸前だったが、カメラを構える右腕だけは、まるで別の生き物のように静止し、冷酷にピントリングを回し続けていた。




