第38幕 外科医の論理
扉が開いた瞬間、川添千秋の顔面を打ったのは、呼吸を拒絶するほどの「清潔さ」だった。
王座の間。そこは、埃ひとつない大理石の床が広がり、天井の高い空間全体が、業務用の冷蔵庫のように冷え切っていた。
寒い。
汗ばんだ肌が急速に冷却され、濡れたシャツが背中に張り付く。部屋の中央、豪奢な玉座の前に、一人の男が立っていた。
アンドリュー・ウォルフガング。
乱れのないスーツ姿。整えられた髪。彼は、泥と煤にまみれた川添たちを、まるで診察室に入ってきた患者を迎えるような穏やかな笑顔で迎えた。
「ようこそ。少し早かったですね」
彼が口を開いた瞬間だった。
ツン、と鼻の奥を刺す刺激臭。
ホルマリン。
高濃度の防腐剤の臭いが、部屋の空気を一瞬で塗り替えた。川添は反射的に鼻を押さえた。
臭い。香水ではない。こいつの毛穴から、この劇薬の臭いが噴き出している。
アンドリューは、川添たちが顔をしかめる様子を無視し、優雅に両手を広げた。
「理解していただきたい。私は破壊者ではない。医師なのです」
彼の声は滑らかだった。だが、そこには人間特有の「息継ぎ」の音が一切混ざっていなかった。
吸気も呼気もなく、ただ一定の音圧で単語が連続して出力されている。フラットな波形。
「この『月』という世界は、末期癌に侵されています。神力という毒素で組織が壊死し、余命はあと僅かだ。だからこそ、外科手術が必要なのです」
アンドリューは、空中に浮かぶ地球の映像――「透鏡」を指差した。
「健康なドナー組織……つまり『地球』の一部を切り取り、患部に移植する。多少の犠牲は出ますが、それによって月という母体は延命できる。これは崇高な救命措置なのですよ」
滑らかだった。録音テープのようなフラットな波形。その生理的な不自然さが、川添の三半規管を殴りつけた。
何か言い返そうとして、口を開く。
「ふざけ……」
声にならない。
「ご、ホッ、ォ……」
咳き込む。喉の粘膜が、充満したホルマリンの刺激で焼けただれ、物理的に声帯が癒着してしまったのだ。
川添は、涙で滲む目でアンドリューの顔を凝視した。
笑っている。だが、その目尻の皺や口角の上がり方がおかしい。
皮膚の下で、蛆のような小さな粒状の何かが蠢いて、無理やり皮を「笑顔」の形に裏側から押し上げている。
「……オ、ェ」
川添の胃袋が、目の前の有機的なデッサン狂いに耐えきれず、酸っぱい胃液を喉元まで押し上げた。




