第33幕 熱量の痕跡
歩行の感覚が狂っている。川添千秋は、地下牢の暗く湿った回廊を、何かに引っ張られるような速度で歩いていた。
本来ならば、数日間の拘束による筋力低下と、指先の壊死による発熱、そして落下の衝撃で痛めた腰の鈍痛で、まともに直立できる状態ではないはずだった。
だが、足が軽い。軽すぎる。
地面を蹴るたびに、大腿四頭筋が異常な収縮を見せ、意識よりも先に肉体が前方へ弾き飛ばされる。自分の体が、高性能なスプリングとワイヤーで補強された別物にすり替わったような浮遊感。
革靴の底が石畳を叩く音もおかしい。カツ、カツ、という硬質な音ではない。
ベチャッ、ベチャッ。
まるで、濡れた肉球を持った大型の獣が、獲物の血痕を追って徘徊しているような、湿り気を帯びた着地音。
川添は立ち止まり、自分の足元を見た。泥とカビにまみれた革靴がある。床は湿っているが、粘液などない。
聴覚がズレている。鼓膜が拾った振動を、脳が勝手に書き換えて出力している。
川添はこめかみを強く叩いたが、湿った足音は止まないどころか、心拍数と同期して大きくなるばかりだった。
ズズズ……ン。
遠くで重低音が響いた。頭上の石積みの隙間から、石灰の粉がパラパラと降り注ぎ、川添の睫毛に白い汚れとなって付着した。
瞬きをすると、ジャリという不快な音が眼球と瞼の間でした。爆発音。微細な振動が足裏を伝い、骨盤を揺らす。
戦闘が始まっている。川添は歩調を早めた。角を曲がった先で、強烈な熱気が顔面の皮膚を焼いた。
「うッ……」
思わず腕で顔を覆う。網膜が赤く染まる。目の前にあったのは、厚さ十センチはある巨大な鉄の扉だった。
だが、それは扉としての機能を喪失していた。中央部分が、直径一メートルほどの円形にくり抜かれ、消失している。
破壊されたのではない。溶断されたのだ。
切断面はドロドロに溶け、オレンジ色に赤熱しており、床には冷えて固まりかけた鉄の雫が黒い水溜まりを作って、ジューッという音を立てていた。
周囲に充満するのは、酸素が急激に燃焼した後のオゾン臭と、気化した金属の有害な刺激臭。吸い込めば肺胞が焼けただれるはずの、死の空気。
「……ストリスティ」
川添の口が、思考を通さずにその単語を吐き出した。イヴェットの持つ神器、聖矢。
その火力が生み出した痕跡だと、脳が理解するよりも速く、鼻の粘膜が反応していた。
そして、恐ろしいことが起きた。
この鼻を焼くような有毒な悪臭を嗅いだ瞬間、川添の気管支は痙攣して閉じるどころか、まるで新鮮な酸素を求めて限界まで拡張したのだ。
唾液が溢れた。瞳孔が開く。
懐かしい。いや、違う。これは有毒ガスだ。不快だ。逃げなければならない。
だが、体の奥底にある「別の記憶」が、この焼け焦げた鉄の臭いを、実家の台所の味噌汁の香りよりも深く、愛おしいものとして認識している。
『彼女だ。彼女が近くにいる』
会いたい。今すぐにこの熱源の向こう側へ行き、あの銀髪の女の、血と油に塗れた体を抱きしめたい。
強烈な引力が、川添の脊髄を掴んで前へ引きずろうとする。足が勝手に動く。赤熱した鉄の切断面に向かって、蛾が炎に飛び込むように。
「ふざけるな……!」
川添は呻き、溶け落ちそうな鉄の断面ギリギリに、自分の左手をかざした。
ジリジリ。
産毛が焦げ、皮膚の水分が蒸発する音がする。
熱い。痛い。
その物理的な痛覚だけが、辛うじて「川添千秋」という個体の輪郭を繋ぎ止める楔だった。
これは取材だ。俺はあの女たちを撮るためにここにいる。恋人ごっこをするためじゃない。
川添は、恋い焦がれるように早鐘を打つ自分の心臓を、肋骨の上から拳で何度も殴りつけた。
ドン、ドン。
鈍い音が胸郭に響き、呼吸が苦しくなる。それでも、肺に残る甘美な「懐かしさ」は消えなかった。
川添は、ドロドロに溶けた扉の穴をくぐり抜ける際、わざと肩を熱い枠に擦り付け、ワイシャツが焦げる臭いを嗅ぎながら、暗闇の先へと足を速めた。




