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第32幕 自我の汚染

「――、ッ、ガァ!?」

 川添千秋は、肺の中の空気をすべて吐き出しながら現実に引き戻された。

 熱い。

 全身が沸騰している。さきほど飲み込んだ黒い汚泥(おでい)が、胃袋の中で爆発的な熱源となり、血液に乗って全身を駆け巡っている。 皮膚の下で、何かが(うごめ)いていた。

 見ると、右腕の亀裂(きれつ)骨折した箇所が、内側から盛り上がっている。

 ボコッ、ボコッ。

 骨が勝手に継がり、筋肉繊維が千切れた箇所を縫い合わせている。それは魔法による癒やしなどではなかった。無数の虫が皮下組織を走り回り、傷口を食い荒らしながら埋めていくような、耐え難い(かゆ)みと激痛。

「あ、ぐ、ぅぅ……ッ」

 川添は腐った(わら)の上でのたうち回った。背中の擦り傷が、ジュワジュワと音を立てて塞がっていく。 傷口から立ち昇る白い湯気が、石牢の冷たい空気と混ざり合い、生臭い獣の臭いを拡散させる。

 治っているのではない。作り変えられている。

 だが、肉体の変質よりも恐ろしいことが、脳内で起きていた。

『イヴェット』

 その名前が脳裏に浮かんだ瞬間、川添の胸が張り裂けそうなほどの熱量で締め付けられた。 愛おしい。会いたい。今すぐにあの柔らかな金髪に触れ、その唇を奪いたい。

 違う。

 川添は、自分の頭を石畳(いしだたみ)にガンガンと打ち付けた。 これは俺の感情じゃない。ナッシュ・セイゲルの記憶だ。あいつの残留思念(ざんりゅうしねん)が、修復のためのエネルギーと一緒に脳のシワの隙間へ流れ込み、川添千秋という人格を上書き保存しようとしている。

 ポタ、ポタ。

 目から液体が落ちた。涙だ。 悲しいわけでも、嬉しいわけでもない。脳の処理容量を超えた感情データが、涙腺(るいせん)をハッキングして強制的に排泄されているだけだ。 頬を伝うその涙は、火傷しそうなほど熱かった。

「……俺は、俺だ……ッ」

 川添は(うめ)き、自分の顔面を両手で強く挟み込んだ。 骨格が変わっていないか。眼球の位置は同じか。 指先で輪郭(りんかく)を確認する。皮膚の感触は、以前よりも硬く、陶器(とうき)のように冷たくなっていた。

 だが、その絶望的な状況下でも、川添の理性の一部は氷のように冷徹(れいてつ)だった。

『面白い』

 他人の記憶に脳をレイプされ、肉体が別物に変わっていくこの感覚。なんて貴重な体験だ。記録したい。この生理的な不快感を、どうにかしてフィルムに定着できないか。

 彼は、涙と鼻水でぐしゃぐしゃになった顔を歪め、暗闇の中で笑った。

 動く。体中の骨が繋がり、筋肉が唸りを上げている。 川添は立ち上がった。足元の藁が、彼から発散される異常な体温で湯気を上げている。

 行こう。愛する人の元へ。いや、最高の被写体の元へ。

 混濁した二つの動機が、修復されたばかりの足を強力に突き動かした。

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