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第03幕 重力不全

 予兆なく、空間が裂けた。轟音(ごうおん)はない。ただ、気圧が急激に変動したことによる「ボフッ」という閉塞感(へいそくかん)が、両耳の鼓膜(こまく)を内側へ押し込んだだけだ。

 アスファルトが砕ける乾いた音が響く。南澄大橋(なんちょうおおはし)の中央車線。水銀灯の光が届かない場所に、巨大な質量の塊が着地していた。

 人間ではない。身長は二メートルを超えている。全身を覆う鈍銀(にびぎん)の装甲は艶消(つやけ)しで、関節の隙間からは黒い霧のようなものが漏れ出し、アスファルトを()めている。

 走行中のトラックが急ブレーキを踏んだ。タイヤが焼ける臭いと、悲鳴のような摩擦音。

 川添千秋の体は、脳が状況を理解するよりも早く動いていた。蹴り倒された三脚が金属音を立てて転がる。彼はカメラを抱え込み、ガードレールの支柱の裏へ滑り込んだ。

 心臓が早鐘(はやがね)を打つのではない。胃の()(ちぢ)み上がり、酸っぱい液が喉元までせり上がってくる。

 逃げろ。

 足の筋肉が痙攣(けいれん)し、立ち上がろうとする。だが、彼の手指は逆の動きをしていた。電源スイッチを入れ、シャッター速度のダイヤルを「1/500」へと回す。指先が震え、ダイヤルのギザギザが皮膚に食い込む。

 直後、頭上から何かが降ってきた。弾丸のような速度。風切り音が鼓膜(こまく)を裂く。

 橋の欄干(らんかん)に着地したのは、市崎(いちざき)高校の制服を着た少女だった。黒髪のロングヘアが、強風に(あお)られて(むち)のように暴れている。彼女は欄干という不安定な足場の上に爪先だけで立ち、無表情で甲冑(かっちゅう)の騎士を見下ろしていた。

 川添はガードレールの隙間からレンズを突き出した。ファインダー越しに見る少女の顔。髪の毛が眼球を叩いている。だが、彼女は(またた)きをしない。

 肌は直射日光に(さら)された陶器のように白く、血の通った赤みがどこにもない。人間を見ている気がしなかった。精巧(せいこう)に作られた人形か、あるいは死体が動いているような生理的な拒絶感が、川添の背筋を粟立(あわだ)たせた。

 騎士が動いた。右腕の装甲がスライドし、砲口(ほうこう)が現れる。発射炎(マズルフラッシュ)が夜の闇を焼き、網膜(もうまく)に残像を残す。ロケット弾のような飛翔体(ひしょうたい)が、少女めがけて射出(しゃしゅつ)された。

 川添は息を止めた。ファインダーに押し付けた眉間から、冷たい汗が流れ落ち、アイピースを濡らす。

 人が死ぬ。肉片が飛び散る。その光景を想像した瞬間、彼の人差し指は躊躇(ためら)なく露出補正ダイヤルを回していた。

 暗い。もっと光が必要だ。鮮明に撮らなければならない。

 だが、爆発は起きなかった。

 少女は動かなかった。ただ、右手を軽く前にかざしただけだ。飛翔体(ひしょうたい)が、彼女の手のひらの数センチ手前で静止した。空中で止まったのではない。

 **「落ちた」**のだ。

 推進力を失った鉄塊が、重力に従って垂直に落下した。カラン、コロン。乾いた音が二回。足元のアスファルトの上を、弾頭が空き缶のように転がった。

 煙も、火花もない。ただ、物理的な運動エネルギーだけが消失していた。

「……あ?」

 川添の口から、空気の漏れるような音がした。理解できない。ファインダーから目を離し、肉眼で確認する。転がっている鉄塊。静止した少女。

 火薬の臭いはしない。代わりに、オゾンと鉄錆(てつさび)が混ざったような、コピー機の排熱に近い刺激臭が鼻をつく。

 少女が背中のチェロケースに手を掛ける。留め具が外れる金属音。中から現れたのは楽器ではない。銀色に輝く、長大なリボルバーだ。

 彼女はそれを両手で構え、騎士へと向けた。その動作はあまりに滑らかで、筋肉の収縮やタメといった人間特有のノイズが一切なかった。機械のアームが正確に座標を合わせるように、銃口が騎士の頭部に固定される。

 川添はカメラのグリップを握りしめた。手汗で革がヌルヌルと滑り、脂ぎった感触が(てのひら)に張り付く。

 胃の()が縮み上がり、酸っぱい液が食道を駆け上がってきた。全身の毛穴が過剰に収縮し、皮膚の下で鳥肌が立つ音が聞こえるようだった。逃げろ。脳ではなく、細胞の一つ一つがそう叫んでいる。

 目の前の怪物は、異形の騎士の方ではない。あの、瞬き一つせず(たたず)む少女の方だ。


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