第27幕 眼球が砕ける音
落ちる。
川添千秋の体感時間は、物理的な落下速度とは無関係に引き伸ばされていた。足場を失った内臓が、慣性の法則に従って喉元までせり上がってくる。
風の音が違う。先ほどまで鼓膜を叩いていた駅構内の空調ノイズや、コンクリートの粉塵が舞う乾いた音ではない。もっと暴力的で、密度の高い大気の壁に衝突する轟音。
ゴォォォォォォ。
鼓膜が内側に張り付き、気圧の変化でキーンという耳鳴りが並行して走る。
川添は反射的に目を開けようとした。だが、強烈な風圧が眼球を押し潰し、涙で視界が滲んで機能しない。網膜に映るのは、意味をなさない黒と灰色の流体だけだった。
アンドリューの姿も、天井に見えていた駅の床も、すべてが闇の向こう側へ溶けて消滅していた。重力の鎖が、容赦なく肉体を下へ下へと引きずり込んでいく。
ドォン!!
衝撃。受け身など取れるはずもなかった。全身が硬い質量に、真正面から叩きつけられる。
肺の中に残っていたわずかな空気が、風船を押し潰すように強制的に排出され、「ガッ」という短い異音が喉の奥から漏れた。
思考が真っ白に弾け飛ぶ。遅れて、脳の神経回路が損傷箇所からの信号を受信し始める。
激痛。
背骨、肋骨、左腕。自分の体の中で、乾燥した薪がへし折られるような、パキパキという乾いた音が響くのを聴覚が捉えた。
骨が折れている。筋肉が断裂し、神経が悲鳴を上げている。
だが、川添の意識は、全身を駆け巡る痛みよりも、右手をついた「地面の感触」に釘付けになっていた。
そこは、さっきまで踏みしめていた駅の滑らかな人工タイルではなかった。
ゴツゴツとした不規則な凹凸。冷たく、湿っている。
掌の皮膚が、表面に付着したぬめりのある苔のような植物質と、ざらついた石の粒子を感じ取っていた。石と石の隙間からは、地下の冷気が吹き上がってくる。
石畳だ。それも、何百年もの間、雨風に晒され、誰の足跡も刻まれていない、風化した古代の石。
意識の供給が途切れかける。視界が急速に収縮し、ブラックアウトしていく。
その寸前だった。
川添の左腕から、命綱のように抱え込んでいた「映鏡」が滑り落ちた。
指の力が抜けたのではない。右手に癒着した「銀槍」の異常な質量が、落下の遠心力で川添の体ごと回転させ、反対側の腕からカメラを物理的に弾き飛ばしたのだ。
反射的に手を伸ばした。指先が空を切る。暗闇の向こう、数メートル先で、音がした。
グシャ。
硬質な精密機械が壊れる音ではなかった。まるで、高いところから落とされた小動物の骨が、皮膚の内側で折れたような、湿った破壊音。
レンズのガラスには、蜘蛛の巣状の亀裂が深く走り、マグネシウム合金のボディが歪んでいる。内部の繊細なミラーボックスが破綻し、シャッター幕が千切れて噛み込んだ感触が、指先を通じて伝わってくる。
修復不能。外装は辛うじて形を保っているが、その中身は完全に砕けていた。
「あ……」
川添の喉の奥から、言葉にならない嗚咽がこみ上げた。
自分の腕が折れたことなど、どうでもよかった。肋骨が肺に刺さる痛みなど、ノイズに過ぎない。
世界と自分を繋ぐ唯一の眼球。汚れた現実を、フレームで切り取ることで辛うじて意味のある「光景」に変えてくれていたフィルター。
それが今、潰れた。
その事実だけが、胸の真ん中に巨大な物理的空洞を穿った。
喪失。
指先が冷える。カメラを失った右手は、もう二度と世界の輪郭を掴むことができない。ただの肉と骨の塊に戻ってしまったという、生理的な無力感が全身を支配する。
静寂が訪れた。落下中の轟音が嘘のように消え失せている。
代わりに、鼻孔を満たすのは、駅の埃っぽい匂いではなく、もっと古く、濃密な臭気だった。
腐敗した土。換気されない空間に溜まったカビ。そして、錆びた鉄格子の味。
口の中に溢れた自分の血の鉄臭さと混ざり合い、川添の思考能力を奪っていく。
ここは地球ではない。冷たい石畳の上で、川添千秋の意識は、泥水に溶けるように暗黒の中へ沈んでいった。




