第26幕 反転する座標
距離を取った。川添千秋は、呼吸を整えようとして失敗した。
肺に入ってくる空気が不味い。
舞い上がったコンクリートの粉塵と、アンドリュー・ウォルフガングが放つ防腐剤の臭気が混ざり合い、粘着質な膜となって気道を塞いでいる。
アンドリューは動かなかった。彼は風化した柱の残骸の横に立ち、空中に浮遊する銀色の鏡――「透鏡」を優雅に見上げている。
指先一つ動かさず、詠唱もしない。ただ、彼の硝子体のように固定された瞳が、鏡の中を覗き込んだだけだった。
違和感は、足の裏から始まった。
床の硬さが消えた。音も、衝撃もなく。川添が踏みしめていた頑丈なタイルの感触が、フッと質量を失った。
消失。
いや、違う。視界が上下に揺れたのではない。世界が裏返ったのだ。
川添の視界の端が黒く欠け、風景が高速でスライドする残像だけが網膜に残る。脳漿が頭蓋骨の内側でシェイクされるような、強烈な揺さぶり。
「……ぐ?」
声にならなかった。足場がない。川添の体は、唐突に重力の鎖に引かれ、下へと沈んだ。
落下。
視線が泳ぐ。今まで頭上にあったはずの駅の天井が、目の前まで迫り、そして急速に遠ざかっていく。
視界の中心が凹レンズのように湾曲し、距離の概念が溶解した。上も下もない。
内耳のリンパ液が激しく波打ち、脳漿がシェイクされるような目眩が視神経を焼き切る。
天井のコンクリートの染みが、ドクンドクンと脈打って見えた。壁面の配管が血管のように収縮し、蛍光灯の明滅が神経パルスのように走る。
無機質な建造物が、呼吸する生肉の壁となって迫り、また離れていく。
処理落ちした脳が、コンクリートの壁を「捕食者の口腔内」と誤認し、胃の内容物を逆流させた。
ボフッ。
鼓膜が内側に押し込まれる音がした。耳が詰まる。水中に引きずり込まれたような閉塞感。
音がない。
自分の心臓の音だけが、ゴボゴボと濁って響く。
アンドリューの姿は、遥か彼方、天井のように見える「元の床」に張り付いたまま、豆粒のように小さくなっていた。彼は見下ろしているのではない。ただ、標本箱の中の昆虫が、ピンセットで摘み出される様を、ガラス越しに観察していた。
受身を取らなければならない。そう念じるが、手足が繋がっていないように重い。四肢が空気の抵抗を受けて、糸の切れた人形のようにバラバラに泳ぐ。
ここがどこなのか、どれだけの高さがあるのか、下には何があるのか。
思考の空白。
川添は、自分が落下しているという事実さえ消化しきれないまま、ただ迫りくる暗黒の底へ向かって、無防備な背中を投げ出していた。




