第22幕 ハードディスクの睡眠
深夜二時。古い木造建築特有の軋み音すら、この部屋には存在しなかった。
元は物置だった四畳半。窓はなく、換気扇も回っていない。空気が循環を止め、古い本のページに挟まったような重たい埃の匂いと、湿気た布団のカビ臭さが充満していた。
川添千秋は、襖の隙間からその空間を覗き込んでいた。
眠れない。指先の幻痛と、昼間の公園で感じた温度のない接触の記憶が、脳の覚醒水準を下げさせない。
部屋の中央に、飯野愛恵が横たわっている。彼女は仰向けになり、両手を胸の上で組んでいた。死装束を着せた遺体のような姿勢だ。
川添は足音を殺して部屋に入った。床板を踏んでも音がしない。この部屋だけ、重力が別の法則で働いているような、足裏への奇妙な反発感があった。
観察する。
彼女の顔色は、闇の中でも白く浮き上がって見えた。陶器のような質感。
胸郭が動いていない。
通常の人間なら、横隔膜の収縮に合わせて布団が上下するはずだ。だが、彼女の胸のラインは、石膏で固められたように微動だにしない。
吸気音がない。空気を出し入れしている気配が物理的に欠落していた。
静寂。あまりにも音がなさすぎて、川添自身の耳鳴りが、キーンとやかましく響く。
カチッ、カチッ。
カチッ、カチッ。
異音がした。川添の横隔膜が引きつって止まる。
音源は、飯野の口元だった。彼女の薄い唇の奥、食道へ続く暗がりから、硬質な接触音が漏れている。
歯ぎしりではない。古いハードディスクの針が、傷ついたプラッタの上を空回りしているような、乾いた駆動音。
カチカチカチ……。
その音が聞こえるたびに、川添の首筋の産毛が逆立ち、皮膚の下で鳥肌が粟立った。
人間からしてはいけない音がしている。
彼女の瞼の下で、眼球が高速で左右に動いていた。指先がピク、ピクと痙攣し、空中で見えない何かを操作するような微細な動きを見せる。
痙攣のたびに、喉の奥のクリック音が加速する。
カチカチカチカチ。
川添の手には、薄手のタオルケットが握られていた。夜は冷える。かけてやるべきだ。そう判断し、腕を伸ばした。
だが、彼の手は空中で停止した。
あと数センチで彼女の体に触れる距離で、筋肉が硬直し、動かなくなった。
指先が冷える。この物体に触れた瞬間、プラスチックのような硬さを感じるのではないか。あるいは、触れた瞬間に瞼が開き、あの光のない瞳孔で標的としてロックされるのではないか。
脳よりも先に、皮膚感覚が接触を拒絶していた。
ズズッ。
枕元に置かれたコップの水が震えた。彼女の指先がピクリと跳ねるたびに、水面に同心円状の波紋が広がる。
床は揺れていない。風もない。なのに、コップの中の水だけが、見えない指で突かれたように歪み続けている。
喉の奥がヒクリと引きつり、酸っぱい唾液が湧き上がった。
川添はその波紋から目を逸らせず、タオルケットを雑巾のように強く絞り上げた。爪が掌に食い込む。
かけることも、立ち去ることもできない。ただ、闇の中で鳴り続ける乾いたクリック音と、理由なく揺れる水面を、棒立ちになって記録することしかできなかった。




