第16幕 窒息戦術
イヴェットが動いた。指先から滴る血を振り払い、再び皮膚の下の神経を引きずり出して「弦」を作る。
狙いはペネロペの眉間ではない。彼女は矢の切っ先を、濡れたアスファルトの地面へ向けた。
「翡翠」
指が離れる。ブチッ、という神経の断裂音と共に、緑色の光が地面に突き刺さった。
爆発はない。代わりに、不快な音が響いた。
ゴボゴボ、ゴボゴボ。
巨大な掃除機がヘドロを吸い込むような、湿った吸引音。路上の水たまり、マンホールの隙間から漏れる下水の蒸気、そして雨上がりの泥。
それらがイヴェットの放った「風」に巻き上げられ、茶色い竜巻となってペネロペを包囲した。
「無駄よ」
ペネロペが指輪をかざす。幾何学的な光の障壁――「神盾」が展開される。
泥の礫が障壁に衝突する。本来なら、すべて弾き返されるはずだ。
だが、異変はすぐに起きた。
バチ、バチバチ。
障壁の表面で、泥水が弾けずにへばりついた。透明なガラスドームに濡れた泥団子を投げつけたように、茶色い汚れが光を覆い尽くしていく。
そして、ドームの中の音が消えた。
「……っ、が?」
ペネロペが自分の喉を押さえた。彼女の口がパクパクと開閉する。陸に上げられた魚のエラ呼吸と同じ動き。
吸気音がない。肺が動いていない。
彼女の顔色が、陶器のような白から、鬱血した赤黒い色へと変色していく。
川添千秋は、その光景をファインダー越しに見ていた。助けるために動くべきだ。だが、彼の人差し指はシャッターボタンの上に置かれたまま、接着されたように動かなかった。
魔法ではない。ただの泥と湿気が、呼吸のための通り道を物理的に塞いでいる。
窒息。
「ひゅ、う……」
ペネロペがアスファルトに膝をついた。爪で自分の首を掻きむしる。白い肌に赤い筋が刻まれ、滲んだ血が泥と混ざる。
彼女の視線が、汚れたガラス越しに川添を捉えた。助けて。そう言っているように見えた。あるいは、酸欠による眼球の痙攣かもしれない。
川添は息を殺した。ファインダーの中の少女が、魔法使いとしての威厳を失い、酸素を求めて悶える「有機的な肉袋」へと還元されていく。
その変質を前にして、川添の指先は、脳の指令を待たずに勝手に動いた。
カリッ。
露出補正ダイヤルをマイナス一弾。
暗くする。窒息して鬱血した顔の、あのどす黒い赤色の階調を、白飛びさせずに定着させるには、光を絞るしかない。
レンズの亀裂が、ドクンと脈打ち、その判断を肯定した。




