第15幕 神経の弦
「――離れろ、泥棒猫」
大気が軋んだ。抱きついていたイヴェットが、バネ仕掛けの人形のように後方へ跳躍する。アスファルトの上の水たまりが、物理的な圧力を受けて激しく弾けた。
店の入り口に、飯野愛恵が立っていた。いや、違う。髪の色素が抜け落ち、死人のような白銀に変貌している。
瞳は赤く発光し、周囲の空間にはガラスを爪で引っ掻くような高周波が満ちていた。
ペネロペだ。
「あら。随分と可愛い番犬ね、ナッシュ」
イヴェットが笑った。目は笑っていない。口角の筋肉だけが、ワイヤーで吊り上げられたように不自然に収縮している。
彼女は右手を虚空にかざした。銀色の弓が出現する。弦はない。
だが、次の瞬間、川添の胃の腑が裏返るような音を聞いた。
イヴェットが右手の中指と人差し指を、弓の両端に当てた。
ズルッ。
湿った音がした。彼女の指先から、白く発光する極細の繊維が引きずり出された。
糸ではない。それは彼女の皮膚の下にある神経束だ。
指先の肉を内側から突き破り、露出した神経が弓の両端に絡みつき、張り詰めた「弦」を形成していく。
「展開」
イヴェットが弦を引く。指の皮が限界まで引っ張られ、半透明に伸びる。毛細血管が透けて見えた。
プツ、プツ。
皮膚が裂ける微細な音。
焦げ臭い。
神経に過剰な魔力が流れることで、生肉が内側から焼けるタンパク質の変性臭が、雨上がりの湿気に混ざる。
止めなければ。ここは住宅街だ。だが、川添の足は地面に張り付いたように動かなかった。
視線が外せない。自らの神経を引き絞り、肉を焼きながら力を生み出すその光景に、川添の眼球は乾燥して張り付くほど見入っていた。
彼の右手が、無意識にポケットの中のカメラを握りしめ、指関節が白くなるまで力を込めている。
「消えなさい」
ペネロペが右手を振るう。見えない衝撃波が大気を断裂させて迫る。同時に、イヴェットが指を離した。
ブチッ。
矢が風を切る音ではない。筋繊維を無理やり引きちぎるような、粘り気のある破裂音が響いた。
光の矢が放たれる。その軌跡には、イヴェットの指先から飛び散った血液が、スローモーションのように赤い飛沫を描いて空中に漂っていた。




