第13幕 日常という薄膜
報道社のフロアは、夕方の気だるい空気に満ちていた。
大型の業務用コピー機が、規則的なリズムで排熱ファンを回している。ブォー、という低い駆動音が、乾燥した空気の中で反響し、川添千秋の鼓膜を撫でる。
彼はデスクで、泥水のように薄い社内コーヒーを啜った。
舌に残る酸味。紙コップのふやけた感触。
何もかもが以前と同じ配置にある。だが、川添の目には、デスクの輪郭や書類の文字が、水に濡れたように滲んで見えた。瞬きを繰り返しても、視界のピントが合わない。
「……先輩。聞いてますか、先輩」
視界の端に、前原七穂が立っていた。彼女は川添のデスクに身を乗り出し、心配そうな顔をしている。
川添は小指を右耳に突っ込み、グリグリと回した。痒みがあるわけではない。鼓膜の奥、三半規管に近い場所で、キーンという高い電子音が鳴り続けている。
その音が、彼女の声を物理的に削り取っていた。
「指、痛むんですか?包帯、変えたほうがいいんじゃ……」
七穂が川添の右手に視線を落とした。黒く壊死した指先を隠すため、分厚く巻かれた包帯。
川添は無言で手を引っ込めた。彼女の唇が動いている。音も聞こえる。だが、その音波は脳の言語野を滑り落ち、地下鉄の通過音と同じ「空気の振動」として処理された。
「……また、あの子のこと考えてるんですか」
七穂の声色が湿り気を帯びた。西日が彼女の横顔を照らしている。
川添の視線が、意思に反して彼女の頬の産毛と、その下にある毛細血管の青みに吸い寄せられた。
血液が循環している。汗腺が開閉し、老廃物を排出している。温かく、湿った有機体。
その「生身」の質感が、今の川添には、切り開かれた内臓を目前に突きつけられているような生理的嫌悪を催させた。
飯野愛恵の、あの陶器のように白く、毛穴一つない「死体」のような肌の冷たさが、渇いた喉の奥でフラッシュバックする。
「……先輩?」
「ああ。聞こえてる」
川添は短く答え、小指で耳の穴を強く擦った。
ジュッ。
粘膜が擦れる湿った音が、頭蓋骨に直接響く。
七穂が何か言いかけたが、コピー機が「ガチャン」とステープラーを止める金属音と、排熱ファンの唸りがそれを掻き消した。
川添は彼女の「生きている顔」から視線を逸らした。
デスクの上に置かれた自分のカメラ。その黒く冷たいレンズの輝きだけが、この騒々しい有機的な世界で、唯一、情報の入出力を遮断した「無機質な穴」としてそこに在った。




