第12幕 鉛のチェロケース
翌日の正午。ラーメン「柴田屋」の店内は、昼時のピークを迎えていた。
換気扇が唸りを上げ、豚骨スープを煮込む白い湯気が天井に重く滞留している。
川添千秋は、カウンターの隅でコップの水を見つめていた。水面に七色の油膜が浮き、微細な振動で揺れている。
以前なら食欲をそそったはずの獣脂の匂いが、今日は違った。鼻の粘膜にへばりつく、煮えたぎる泥と酸化した油の臭気。
「いやあ、たまげた!千秋がこんな別嬪さんを連れてくるとはなあ!」
厨房から響く父・誠一郎の声。その声は、分厚いアクリル板と湯気の層に阻まれ、遠くの水槽の外から話しかけられているようにくぐもって聞こえた。
食器がぶつかるカチャカチャという高音と、テレビのニュース音声が混ざり合い、意味のないノイズの塊となって川添の鼓膜を叩く。
隣には、飯野愛恵が座っていた。彼女は出されたチャーシューメンを処理していた。
箸で麺と肉を掴み、口に運び、上下の歯で粉砕して嚥下する。そのリズムは完全に一定だった。メトロノームのように正確な間隔で、顎が開閉を繰り返す。
ガリッ。
彼女が豚の軟骨を噛み砕いた。湿った破壊音が、店内の喧騒を切り裂いて川添の耳元で響いた。硬い有機物がすり潰され、食道へと落下していく音。
「……ごちそうさまでした」
飯野が箸を置いた。丼の中は、洗ったように空になっていた。
父が嬉しそうに笑っているが、その笑顔の輪郭も湯気で歪んで見える。川添は逃げるように席を立ち、飯野を促して店の奥にある階段へ向かった。
二階、六畳の自室。飯野は背負っていた黒いチェロケースを畳の上に下ろした。
ズンッ。
重い音がした。楽器の重さではない。中に鉛の塊か、死体でも詰め込まれているような質量。畳のイグサが悲鳴を上げ、床板が弓なりに湾曲した。舞い上がった埃が、西日の中でキラキラと光る。
「……しばらく、ここに厄介になります」
飯野は事務的に言い、ケースの留め具に手を掛けた。
カチリ。
わずかに開いた隙間から、空気が漏れ出した。豚骨の臭いでも、現像液の酢酸臭でもない。強烈な鉄錆と、病院の解剖室で嗅ぐような防腐剤の刺激臭。
川添は足元を見た。チェロケースの底から、黒く粘度のある液体が滲み出し、新しい畳にどす黒い染みを作っている。
機械油なのか、凝固しかけた血液なのか。
川添は目を逸らそうとした。だが、ポケットの中に入れた右手が、ズキリと疼いた。
壊死した指先の感覚のない冷たさが、彼をこの「異臭のする現実」にピン留めしていた。




