第11幕 人間という燃料
深夜二時。自室に戻った川添千秋は、シンクの蛇口を全開にして口を濯いでいた。
水道水のカルキ臭と、胃から逆流した酸っぱい臭い。それらが狭い部屋に充満する現像液の酢酸臭と混ざり合い、鼻の粘膜を不快に刺激する。
彼は濡れたタオルで口元を乱暴に拭い、振り返った。
そこに、飯野愛恵がいた。銀色の髪は黒に戻り、どこにでもいる女子高生の姿をしている。
だが、彼女は部屋の入り口で直立不動のまま、微動だにしない。呼吸による肩の上下動がない。
川添は濡れたタオルをシンクに投げ込んだ。
ボトッ。
湿った音が、静寂の中でやけに大きく響く。
「……助けてくれて、ありがとう。そう言えばいいのか?」
川添が尋ねる。飯野は無表情のまま、ガラス玉のような瞳で川添を見据えていた。その瞳孔が開いたまま固定されている。暗がりでも光を最大限に取り込もうとする、レンズの絞り開放と同じ状態。
「感謝は不要です。私たちはリソースの損耗を最小限に抑えただけですから」
彼女の声は平坦だった。飯野が一歩、部屋に踏み込む。
狭い六畳間。異性が近づいた時特有の甘い香りや、体温の揺らぎはない。
微かに臭う。
彼女からは、古いテレビの裏側に溜まった埃のような、あるいは熱を持ったプラスチックのような、乾いた化学物質の臭いが漂っていた。
「リソース?」
「あなたです。川添さん」
飯野の視線が、川添の右手へ向けられた。川添は反射的に右手を背中に隠した。
指先の感覚がない。壊死した皮膚が炭のように黒ずみ、冷え切っている。彼女の視線は、隠した手を透過するように、川添の背後を執拗にスキャンしていた。
「『映鏡』の起動には、彼端の人の生命力が必要です。適性値の低い個体なら、一度の使用で全身が炭化して砕けます」
「……俺は、電池か」
「優秀なバッテリーです。指数本の欠損で、あれだけの出力を安定供給できたのですから」
彼女の言葉は、ホームセンターで乾電池の規格を確認するような、無機質な音声データだった。
川添は背中の後ろで、感覚のない指を強く握りしめた。痛みはない。ただ、冷えた粘土が癒着しているような異物感だけがある。
太腿の筋肉が収縮する。ここから逃げろ。次に食われるのは腕か、内臓か。生存本能が脊髄に電気信号を送り、後ずさろうとする。
だが、川添の眼球は、その指令を拒絶して彼女の瞳孔に固定されていた。
見たい。
目の前にいる、この「人間の形をした工業製品」が、次にどんな挙動で世界をバグらせるのか。あの裏返った物理法則を、もう一度、ファインダー越しに焼き付けたい。
川添の喉が鳴った。渇きではない。何かを嚥下しようとする生理的な運動だ。
膝が震えているのに、口腔内には食欲に近い粘着質な唾液が溢れ出していた。壊死した指先が、心臓の鼓動に合わせてドクン、ドクンと疼き、その痛みが倒錯した快感となって脳髄を痺れさせていく。
「契約しましょう」
飯野が言った。手は差し出さない。ただ、システムがログインを要求するように、川添の顔を無機質に見上げている。
川添は隠していた右手を出し、自身の腫れ上がった指先を視界に入れた。黒く変色した皮膚。
彼はそれを肯定するように、ゆっくりと頷いた。
部屋の隅で、現像液のバットがピシッ、と乾燥による音を立てた。




