第10幕 灰と嘔吐
静寂が戻っていた。川添千秋は、欄干に背を預けたまま、ずり落ちるようにアスファルトへ座り込んだ。
右手にあるのは、一枚の写真だ。まだ湿っている。現像液の水分ではない。内包された熱によって、印画紙の表面が脂ぎった汗をかいている。
写っているのは、ねじれた大気と、黒い破壊の奔流。数秒前まで彼を物理的に破壊しようとしていたエネルギーが、長方形の枠の中に閉じ込められ、静止している。
「……な、に?」
数メートル先。空中で静止していたペネロペが、呆然と自分の掌を見つめていた。
彼女の放った衝撃波は、どこにも着弾しなかった。風すら吹かない。ただ、最初から存在しなかったかのように世界から削除されている。
川添は震える左手で、ポケットから百円ライターを取り出した。指がうまく動かない。石を擦るのに三回失敗し、四回目にようやく頼りない火が灯った。
彼はそれを、写真の端に近づけた。
ジュッ。
紙が燃える音ではない。水分を含んだ生肉に焼き鏝を押し当てたような、湿った音がした。
炎が写真を舐める。立ち昇る煙が、夜気に混ざる。
臭い。
紙の焦げる炭化臭ではない。火山の噴火口で嗅ぐような、鼻の粘膜を直接腐らせる濃厚な硫黄の臭気だ。腐った卵の臭い。
写真の中の「黒い奔流」が、炎と共に紫色の粒子となって空中に霧散していく。
写真は灰になり、アスファルトの上に崩れ落ちた。それと同時だった。
「――ぅ、ぐ」
川添の腹の底から、熱い塊がせり上がってきた。我慢する間もない。彼は四つん這いになり、アスファルトの上に胃の内容物をぶちまけた。
酸っぱい臭気と、硫黄の臭いが鼻の奥で混ざり合う。涙と鼻水が止まらない。喉がヒューヒューと鳴り、酸素が入ってこない。内臓を雑巾絞りにされたような、筋肉の痙攣が止まらなかった。
川添は口元を手の甲で乱暴に拭った。唾液が糸を引く。
感覚がない。
右手の指先。シャッターを切った人差し指と中指が、氷水に浸したように冷たく、鉛のように重い。
街灯の光に翳して見る。指先が紫色に変色していた。鬱血ではない。細胞の一つ一つが死滅し、炭のように黒ずみ始めている。
「……は、はは」
乾いた音が喉から漏れた。川添はアスファルトに転がったまま、夜空を見上げた。
口の中に残る鉄の味と、胃液の酸味。そして、腐り始めた指先の感覚のなさだけが、彼を現実につなぎ止めていた。




