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第01幕 酢酸の澱み

読者の皆様へ:

本作は、異能バトルファンタジーの皮を被った、一人のカメラマンの「変質」と「喪失」の記録です。

物語の性質上、以下の要素が含まれます。

• 身体欠損および生理的嫌悪感を催す描写

• 主人公の倫理観の欠如

• ハッピーエンドの否定

「英雄が世界を救って幸せになる物語」をお求めの方には、強いストレスを与える可能性があります。 逆に、傷ついたレンズ越しに見る「壊れた世界の美しさ」を愛せる方には、最高の被写体を提供できると確信しています。

覚悟のある方は、どうぞファインダーを覗いてください。

 午前二時。報道社のフロアには、泥のように重い沈黙(ちんもく)が溜まっていた。

 吸音材の()がれた天井から、空調の低い(うな)り声だけが降り注ぐ。長年踏み固められたカーペットは、靴底が吸い付くような粘度(ねんど)を帯びており、歩くたびに(ほこり)とインクの混じった乾いた粒子が舞い上がるのがわかった。

 川添千秋の左手が、肋骨(ろっこつ)(かば)うように胸元へ走った。ベストのポケット。そこに「ある」はずの硬質な膨らみ――予備フィルムの冷たい角を、親指の腹で強く押し込む。

 痛い。

 その角が皮膚に食い込む鋭利な圧迫感を確認して、ようやく肺の奥まで酸素が入ってくる。指を離す。三歩歩く。途端に、心臓の裏側がスースーと冷えるような欠落感(けつらくかん)が襲う。指が戻る。押し込む。痛みで脈拍が落ち着く。

 その強迫的なループが、彼の人差し指の指紋を、やすりで削ったようにツルツルに摩耗(まもう)させていた。

「お疲れ」誰に向けてともなく(つぶや)き、タイムカードを切る。返事はない。蛍光灯の明滅(めいめつ)が、乾いた眼球の裏側をチカチカと刺激し、涙腺(るいせん)が僅かに緩んだ。

 *

 帰宅した先は、国道沿いにあるラーメン屋「柴田屋」の二階だ。階段を上る最中から、一階の換気扇が吐き出す豚骨スープの脂っこい獣臭(けものしゅう)が、湿ったコンクリートの壁に張り付いているのがわかる。

 だが、川添が借りている六畳間には、それとは異質(いしつ)の空気が充満していた。

 ドアを開けた瞬間、鼻の粘膜(ねんまく)をツンと刺す酸性の刺激。部屋の半分を占拠する現像機材と、バットに満たされた定着液が放つ酢酸(さくさん)の臭いだ。

 それが階下の脂臭さと混ざり合い、腐った果実が発酵(はっこう)したような、甘ったるくも重い空気を醸成(じょうせい)している。

 川添は顔をしかめることもなく、その(よど)んだ空気を肺の奥まで吸い込んだ。喉の奥が(わず)かに痙攣(けいれん)し、気管支(きかんし)が異物を受け入れる準備を整える。

 ネクタイを緩め、自分の手を見る。現像液に()かり続けた人差し指と中指の爪は、黄ばんで変色していた。

 風呂場でどれだけブラシで(こす)っても落ちない。薬品が皮膚の組織そのものを染め上げ、角質層(かくしつそう)の奥深くにまで浸透(しんとう)している。親指でその黄色い()みを強く擦ってみるが、指の腹が熱を持つだけで、色は変わらない。

 机の上には、年季(ねんき)の入った黒い一眼レフカメラが鎮座(ちんざ)していた。金属の冷たい質感が、指先の熱を奪う。

 ブロアーで(ほこり)を吹き飛ばし、シルボン紙でレンズを(ぬぐ)う。アルコールの揮発(きはつ)する匂いが、一瞬だけ部屋の悪臭を中和(ちゅうわ)し、すぐに消えた。

 レンズの表面、その中央よりわずかに右側に、髪の毛ほどの細い線が走っている。川添の人差し指が、その微細な亀裂(きれつ)の上を滑った。

 ガラスの冷たさと、そこにあるはずのない微細な段差。

 指先がその「傷」を感知すると、奥歯が無意識に噛み合わさり、耳の奥でゴリっという低い音が鳴った。

 ファインダーを(のぞ)く。ピントリングを回す。薄暗い部屋の景色が、亀裂によってわずかに分断(ぶんだん)され、(ゆが)んで結像(けつぞう)する。正常なレンズなら弾かれるはずの迷光(めいこう)が、傷口から入り込み、視界の隅に赤い(にじ)みを作っていた。

 喉が鳴った。渇きではない。何かを嚥下(えんげ)しようとする生理的な運動だ。

 彼はカメラを下ろさず、そのまま窓の外へレンズを向けた。国道を走るトラックのヘッドライトが、亀裂の中で乱反射(らんはんしゃ)し、血走った血管のように赤く伸びる。

 シャッターボタンに置いた人差し指が、小刻みに震えていた。

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