パスタの茹で加減も分からない女と呼ばれた私は、伝説のシェフの記憶を持つ転生者でした~今さら戻ってこいと言われても、もう遅いです~
「――パスタの茹で加減も分からない女に、公爵家の厨房は任せられない」
エドワード殿下の冷たい声が、王宮の大広間に響き渡った。
(あら、今日はパスタなのね)
私――リネット・マーガレット・クレイトンは、目の前で繰り広げられる茶番を眺めながら、内心で静かに溜息をついた。
金髪碧眼の第二王子は、傲慢に顎を上げて私を見下ろしている。整った顔立ちには嘲りが浮かび、その唇は常に歪んでいた。私の婚約者。そして今、私を断罪しようとしている男。
殿下の隣では、男爵令嬢セリーナ・ベアトリス・ホリングワースが涙を湛えた瞳で私を見つめていた。
白磁の肌、プラチナブロンドの巻き髪、露草色の大きな瞳。絵画から抜け出したような可憐な姿で、彼女は震える声を絞り出した。
「わたくし……ただ、本当のことを申し上げただけですの。リネット様のお作りになったパスタが、あまりにも硬くて……喉を傷めてしまって……」
(昨日、私が作ったのはコンソメスープなんだけど)
ツッコミたい。非常にツッコミたい。
だが、三年間この王宮で学んだことがある。
真実など、誰も求めていないのだ。
「リネット嬢」
エドワード殿下が私に視線を向けた。青い瞳には一片の情愛もない。当然だ。この婚約は政略的なもの。没落した子爵家の娘である私は、殿下にとって「仕方なく受け入れた婚約者」でしかなかった。
「弁明があるなら聞こう。もっとも、セリーナを傷つけた事実は変わらないがね」
(弁明を聞く気がないなら、最初から聞かないでほしいんだけど)
周囲の貴族たちがひそひそと囁き合っている。
「やはり料理人見習いなど、王子の婚約者には相応しくなかったのよ」
「没落子爵家の娘ですもの。分不相応だったのです」
「セリーナ様の方がお似合いですわ」
同情の視線など、一つもない。
料理しか取り柄のない地味な婚約者。そんな私が追放されることを、誰もが望んでいた。
ふと、脳裏に声が響いた。
『――パスタは茹でたてが命よ。アルデンテの見極めができなければ、一流とは呼べないわ』
懐かしい記憶。
いや、これは「前の私」の記憶だ。
ミシュラン三つ星。『パスタの魔女』と呼ばれた、伝説のシェフ。
追放される今この瞬間、封じられていた前世の記憶が完全に蘇っていく。
三十年以上の研鑽。何千何万と打ってきた麺。極限まで追求した味の記憶。東京の裏路地にあった小さなトラットリアから始まり、世界中の美食家を唸らせた「魂の料理」。
――ああ、そうだった。
私は、料理人だったのだ。
「……殿下」
私は静かに顔を上げた。
もう、俯く必要などない。
「かしこまりました。では本日をもって、私は厨房を去ります」
「なっ……」
エドワード殿下が目を見開いた。抵抗も、涙も、懇願もない私の反応が想定外だったのだろう。
セリーナも驚いたように目を瞬かせている。きっと、私が泣いて許しを乞う姿を期待していたに違いない。
「待て、リネット。そなた、自分の立場が分かって――」
「ええ、よく分かっております」
私は微笑んだ。三年間、一度も見せたことのない笑顔だった。
「パスタの茹で加減も分からない女ですもの。このような場所にいる資格がございませんわ」
セリーナの顔が強張った。私の目を見て、何かが違うと気づいたのかもしれない。
遅い。もう、三年も遅い。
「殿下。私のレシピノート、セリーナ様が大切にお持ちでしょう? どうぞお役立てくださいませ」
「な……何のことだ」
「ご存知ないふりがお上手ですこと」
私はスカートの裾を優雅につまみ、完璧な礼を取った。
「今までお世話になりました。どうぞ、お幸せに」
振り返らずに大広間を後にする。背後で何か叫ぶ声が聞こえたが、もう関係ない。
長い廊下を歩きながら、私は前世の記憶を整理していく。
カルボナーラ、ペペロンチーノ、アマトリチャーナ。生パスタの製法から、ソースの黄金比率まで。すべてが、鮮明に蘇ってくる。
私の手には、一生かけて磨いた技術がある。
あの男に認められる必要など、最初からなかったのだ。
「――見ていなさい」
誰にともなく、私は呟いた。
「パスタの茹で加減も分からない女が、どんな料理を作るのか」
◇◇◇
王宮の自室に戻ると、すでに荷物をまとめるよう指示が出されていた。
(仕事が早いこと)
私は苦笑しながら、質素な部屋を見回した。三年間暮らした場所だが、未練は不思議とない。私の居場所は、ここではなかった。
「リネット嬢」
低い声に振り返ると、厨房の古参料理人――トーマス・ガーランドが立っていた。
白髪交じりの顎髭、厳めしい顔。四十年以上王宮の味を支えてきた職人だ。分厚い掌には、長年の料理人人生が刻まれている。
「トーマスさん」
「……聞いた」
彼は無言で私に近づき、分厚い掌を私の肩に置いた。
「馬鹿どもめ。あの小娘のパスタがどんなものか、俺は知っている」
(ああ、この人は)
私の目頭が、少しだけ熱くなった。
「茹ですぎてブヨブヨ、ソースは分離、盛り付けは崩壊。あれを食わされる殿下が哀れだよ」
「トーマスさん、声が大きいですわ」
「構うものか」
彼は鼻を鳴らした。
「……お前さんのレシピを盗んでいたこと、俺は知っていた。証拠がなくて、何も言えなかったが」
「ええ、知っています」
トーマスさんは私の才能を最初から認めてくれた、数少ない理解者だった。だからこそ、彼を巻き込みたくなかった。
「どこへ行く」
「下町で、小さな食堂でも開こうかと」
「……食堂だと?」
彼の目が見開かれた。没落子爵家の娘が、下町で商売。普通なら考えられない転落だ。
でも、私には前世の記憶がある。
路地裏の小さなトラットリア。そこから始めて、ミシュランの星を掴んだ記憶が。
「私には、料理しかありませんから」
微笑むと、トーマスさんは深い溜息をついた。
「……お前さんらしい」
彼はポケットから小さな包みを取り出した。
「餞別だ。俺特製の塩だ。困った時に使え」
「トーマスさん……」
「礼はいらん。いつか、お前さんの店で飯を食わせてもらう。それでいい」
◇◇◇
王宮の門を出る時、私は一度だけ振り返った。
壮麗な白亜の城。私が三年間、息を殺して過ごした場所。
(さようなら)
もう二度と、あの門をくぐることはないだろう。
少なくとも、「戻りたい」と願う形では。
「……さて」
私は前を向いた。
下町への道は長い。でも、足取りは軽かった。
懐には、わずかな貯えと、トーマスさんからもらった塩。そして頭の中には、一生分の料理の記憶。
「まずは物件探しね」
呟きながら歩き出す。前世では、古びた居抜き物件から始めた。この世界でも、きっと同じようにできるはずだ。
夕暮れの空が、オレンジ色に染まっていた。
新しい人生が、始まろうとしていた。
◇◇◇
同じ頃、王宮の厨房では――
「セリーナ様、本日の晩餐のメニューは」
「ええと……パスタを……」
男爵令嬢セリーナは、真っ白になった頭で厨房に立っていた。
リネットのレシピノートは手元にある。だが、そこに書かれた内容が、まるで理解できない。
『麺は打ちたてを使用。加水率は43%。気温と湿度によって微調整すること』
(加水率って何……?)
「セリーナ様、お湯が沸騰しております」
「あ、ええと、麺を入れて……」
乾麺を鍋に投入する。茹で時間は……レシピノートには『アルデンテまで』としか書いていない。
(アルデンテって……どのくらい?)
十五分後。
「殿下、本日のパスタでございます」
エドワード王子の前に置かれた皿には、ブヨブヨに茹ですぎた麺と、分離したクリームソースが無残な姿を晒していた。
「……セリーナ」
「は、はい……?」
「これは、何だ」
王子の額に青筋が浮かんでいた。
セリーナは初めて気づいた。
自分が追放した女が、どれほどの技術を持っていたのかを。
だが、もう遅い。
リネットは、もういないのだから。
◇◇◇
王宮を追われてから二週間。
私は下町の片隅で、小さな食堂を開いていた。
『フォルトゥーナ』。前世で最初に開いた店と同じ名前をつけた。運命の女神という意味だ。
「姐さん、今日の仕込み終わりました!」
元気な声とともに、そばかすの少女が厨房から飛び出してきた。
フィオナ・ウェスト。孤児院出身の十七歳。開店準備中に「働かせてください」と押しかけてきた子だ。くりっとした栗色の瞳は好奇心に満ち、明るく活発な印象を与える。
「フィオナ、麺の状態は?」
「ばっちりです! 今朝打った生パスタ、いい感じに寝かせてあります」
「よし、いい子ね」
フィオナの頭を撫でると、彼女は嬉しそうに笑った。
(この世界でも、生パスタは作れるのね)
小麦粉の質は前世より劣るが、卵は新鮮で質がいい。配合を調整すれば、十分に美味しい麺が作れる。
店は六席しかない小さな食堂だが、連日満席が続いていた。
「姐さんの『からぼなーら』、まじで最高なんですよ! お客さんみんな、目ん玉飛び出してましたもん」
「カルボナーラね、フィオナ」
「からぼ……? 難しい名前ですねえ」
私は苦笑した。この世界にはパスタ文化がない。だから「奇跡の麺料理」として、瞬く間に噂が広がったのだ。
下町の労働者たちは最初、見慣れない料理に戸惑っていた。だが、一口食べた瞬間、その表情が変わる。
「なんだ、これ……」
「こんな美味いもん、食ったことねえ……」
口コミは瞬く間に広がり、今では貴族のお忍び客まで来るようになっていた。
◇◇◇
昼の営業を終え、夕方の仕込みをしていた時のこと。
「すみません、まだやっていますか」
低く落ち着いた声に振り返ると、見知らぬ男が立っていた。
漆黒の髪に、深い琥珀色の瞳。商人風の質素な装いだが、所作に隠しきれない品がある。年は二十代後半だろうか。精悍な顔立ちに理知的な雰囲気を纏い、鍛え抜かれた長身の体躯。
(この人……ただ者じゃないわね)
前世の勘が告げていた。何千人もの客を見てきた経験が、この男の「格」を教えてくれる。
「昼の営業は終わりましたが……何かお急ぎで?」
「いえ、急ぎではありません。ただ、この店の噂を聞いて」
男は静かに微笑んだ。穏やかな表情だが、瞳の奥には鋭さが宿っている。
「『奇跡の麺料理』を、ぜひ味わいたくて」
(……試されている?)
直感だった。この男は、私の料理を「評価」しに来たのだ。
面白い。
「分かりました。少々お待ちください」
私は厨房に戻り、腕まくりをした。
何を作るか、もう決まっている。
カルボナーラ。
前世で最も得意とした一皿。卵とチーズと黒胡椒、シンプルな材料だからこそ、技術の差が如実に出る。
麺を茹でる。湯の温度、塩の量、すべてが計算通り。
卵液を合わせる。火加減を見極め、一瞬のタイミングを逃さない。
ソースと麺が絡み合い、黄金色の艶を纏う。
「お待たせしました」
男の前に皿を置いた瞬間、彼の目が見開かれた。
「これは……」
「当店自慢のカルボナーラです。どうぞ、温かいうちに」
男はフォークを取り、一口を口に運んだ。
そして、動きが止まった。
長い沈黙。
その琥珀色の瞳が揺れている。驚きか、感動か。いや、それ以上の何かが、彼の中で起きているようだった。
「……どうかしましたか?」
「いえ」
男は、ゆっくりと顔を上げた。
その瞳が、深い感情を湛えていた。驚き、感動、そして――渇望。
「これは、私が生涯で食べた中で、最も美しい料理です」
「お口に合ったようで何よりです」
「合った、などという言葉では足りない」
男は真っ直ぐに私を見つめた。その視線には、為政者としての威厳と、一人の人間としての純粋な感動が混在していた。
「この味を作れる者を、我が国の宮廷料理長として迎えたい」
「……は?」
思わず素が出た。
「失礼、自己紹介が遅れました」
男は立ち上がり、優雅に一礼した。
「私はアルベルト・ヴィンチェンツォ・ディ・ソレイユ。隣国ソレイユ王国の国王です」
「………………え?」
国王。
こ、国王?
「えっ、ちょっと待って」
敬語が吹き飛んだ。
「いや待って待って待って、国王って、あの、隣の国の?」
「ええ、その通りです」
「なんで商人の格好で下町の食堂に!?」
「美食を求める旅に、身分は邪魔ですから」
さらりと言う。この人、絶対に変わり者だ。
だが、その瞳は真剣そのものだった。
「リネット殿。あなたの料理には、魂がある。人の心を動かす力がある」
アルベルト国王は、静かに、しかし確かな熱を込めて告げた。
「どうか、私の国に来てはいただけませんか」
(これは……)
運命の女神が、微笑んだのかもしれない。
私の第二の人生は、想像以上の速度で動き始めていた。
◇◇◇
リネットが王宮を去ってから、一ヶ月が経った。
その間、王宮の厨房は地獄と化していた。
「殿下、本日のスープでございます」
「…………」
エドワード王子は無言でスプーンを置いた。塩辛すぎて飲めたものではない。
「セリーナ」
「は、はい、エドワード様……」
「これで、何度目だ」
「申し訳ございません、わたくし、一生懸命……」
セリーナの目に涙が浮かぶ。だが、もはやその涙に心を動かされることはなかった。
(なぜだ。レシピ通りに作っているはずなのに)
エドワードは苛立ちを隠せなかった。
「リネットはたった一人で、毎日完璧な料理を出していたではないか」
「あ、あの女とわたくしを一緒にしないでください!」
セリーナが声を荒げた。
「あの女は、所詮料理人ですわ! わたくしは男爵令嬢として、もっと相応しい……」
「料理ができない男爵令嬢が、何の役に立つ」
「っ……!」
「下がれ。顔を見たくない」
冷たく言い放つと、セリーナは泣きながら部屋を飛び出していった。
◇◇◇
一人になった執務室で、エドワードは頭を抱えた。
来月には、各国の要人を招いた外交晩餐会が控えている。料理は外交の要。不味い料理を出せば、国の威信に関わる。
「リネットを呼び戻すか……」
呟いてから、首を振った。あの時の彼女の目を思い出す。冷静で、透明で、もはや何の感情も宿していなかった。
「いや、頭を下げれば戻るだろう。所詮は没落貴族の娘だ」
そう自分に言い聞かせた時、執務室の扉が叩かれた。
「殿下、失礼いたします」
入ってきたのは、兄であるレイモンド第一王子だった。
金髪だがより深みのある色合いで、冷静な灰青色の瞳を持つ。端正な顔立ちには常に憂いを帯びた影があり、病弱ゆえの儚げな雰囲気を纏っている。
政務から遠ざけられているが、その聡明さは宮廷の誰もが認めていた。
「兄上、何か」
「いや、面白い噂を聞いてね」
レイモンドは灰青色の瞳を細め、窓の外を見やった。
「下町に『奇跡の麺料理』を出す食堂があるそうだ。貴族の間で大評判になっている」
「下町の食堂など、私には関係ありません」
「そうかな」
レイモンドは意味深に微笑んだ。
「その店の料理人は、蜂蜜色の髪にオリーブグリーンの瞳。元王宮料理人だという話だが」
「なっ……!」
エドワードの顔色が変わった。
「リネットが、下町で……?」
「それだけではない。隣国ソレイユの国王が、彼女を宮廷料理長に招聘しようとしているらしい」
「馬鹿な! あの女は私の――」
言いかけて、口をつぐんだ。
私の、何だ?
婚約者だった。だが、自分の手で追放した。パスタの茹で加減も分からないと、侮辱の言葉を投げつけて。
「彼女を手放したのは、お前自身だろう、エドワード」
レイモンドの声は、どこか憐れむような響きを帯びていた。
「本物を見抜く目がなかった。それだけのことだ」
「兄上!」
「外交晩餐会、楽しみにしているよ。どんな料理が出るのか」
レイモンドは踵を返し、静かに部屋を出ていった。
◇◇◇
取り残されたエドワードは、拳を握りしめた。
(あの女が……私を見返そうとしている?)
あり得ない。あの地味で従順で、取り柄のない女が。
「使いを出せ」
侍従を呼びつけ、命じた。
「リネット・クレイトンを連れ戻せ。王宮に戻れば、厨房での地位を保証すると伝えろ」
「かしこまりました」
侍従が下がった後、エドワードは不敵に笑った。
(所詮、没落貴族の娘だ。王宮の後ろ盾がなければ生きていけまい)
だが、彼は知らなかった。
使いが食堂『フォルトゥーナ』を訪れた時、リネットが何と答えたかを。
「申し訳ありません。私は『パスタの茹で加減も分からない女』ですので」
微笑みとともに、扉は閉ざされた。
◇◇◇
外交晩餐会の夜が、訪れた。
王宮の大広間には、各国の王族や要人が居並んでいる。煌びやかなシャンデリア、高価な装飾品、そして張り詰めた空気。
エドワード王子は、何とか体面を取り繕って笑顔を浮かべていた。
(リネットは結局、戻らなかった)
あの女に三度も使いを出したが、答えは同じだった。丁重な、しかし揺るぎない拒絶。
「殿下、料理の準備が整いました」
侍従の報告に、エドワードは顔を引きつらせた。セリーナと他の料理人たちが、必死で準備した晩餐。正直、期待はできない。
(どうにか乗り切るしか……)
その時だった。
「ソレイユ王国、アルベルト国王陛下のお成りー!」
大広間に響き渡る声。
扉が開き、漆黒の髪と琥珀色の瞳を持つ若き国王が、堂々と入場してきた。
そして、その隣には――
「リネット……!?」
エドワードの顔から血の気が引いた。
蜂蜜色の髪を優雅に結い上げ、深紅のドレスを纏った女性。オリーブグリーンの瞳が、真っ直ぐにエドワードを見据えている。
かつての地味な料理人見習いの姿はなかった。そこにいるのは、自信と気品を纏った一人の女性だった。
「お久しぶりです、殿下」
リネットは完璧な礼を取った。
「本日は、ソレイユ王国の宮廷料理長として参りました」
「宮廷……料理長……?」
「ええ。アルベルト陛下のお招きを、お受けいたしましたので」
アルベルト国王が、穏やかに微笑んだ。だがその瞳の奥には、明らかな挑発の光が宿っている。
「本日の晩餐には、我が国の料理をお披露目させていただきます。リネット殿の『黄金のパスタ』、各国の要人に味わっていただきたくて」
(馬鹿な……これは)
外交的な挑戦だった。自国の料理を差し置いて、他国の料理を振る舞う。それは、この国の厨房の質を否定する行為に等しい。
「アルベルト陛下、それは……」
「もちろん、エドワード殿下のお許しがあればの話ですが」
アルベルトの瞳が、挑発的に光った。
「まさか、元婚約者の料理を恐れるわけではありますまい?」
周囲がざわめく。各国の要人たちが、興味深げにこちらを見ている。
エドワードは追い詰められていた。断れば、器が小さいと嘲笑される。だが、受ければ――
「……お好きになさるがいい」
絞り出すように答えるしかなかった。
◇◇◇
晩餐会の料理が運ばれてきた。
まず、セリーナが指揮した料理。肉料理は焼きすぎて硬く、スープは塩辛く、サラダはしおれていた。
各国の要人たちは、露骨に顔をしかめた。
「これが、この国の宮廷料理か……」
「恥ずかしくないのかね」
ひそひそと囁かれる声が、エドワードの耳に届く。
セリーナの顔は蒼白だった。必死で笑顔を取り繕おうとしているが、震える唇が隠せない。
そして。
「お待たせいたしました。ソレイユ王国より、『黄金のカルボナーラ』でございます」
リネットが自ら運んできた皿が、テーブルに並べられた。
黄金色に輝く麺。完璧に乳化したソース。香り立つ黒胡椒とチーズの芳醇な香り。
皿を目にした瞬間、大広間に静寂が訪れた。
一口、食べた要人が息を呑んだ。
「これは……!」
「なんという味だ……」
「まるで、魔法のようだ……!」
感嘆の声が、大広間に広がっていく。
リネットの料理は、人の心を動かす『魂の料理』だった。前世で培った技術と、この世界で磨いた感性が融合した、唯一無二の一皿。
「リネット殿」
アルベルト国王が、彼女の隣に歩み寄った。その瞳には、深い敬意と、それ以上の感情が宿っている。
「素晴らしい。これほどの料理人を見出せたことを、誇りに思う」
「もったいないお言葉です、陛下」
リネットが微笑む。その姿は、どこまでも自信に満ちていた。
◇◇◇
「待ってください!」
悲鳴のような声が響いた。
セリーナだった。プラチナブロンドの髪が乱れ、露草色の瞳は恐怖と焦燥で見開かれている。
「あの女は、詐欺師ですわ! わたくしのレシピを盗んで、自分のものにしているのです!」
大広間が静まり返った。
「セリーナ様」
涼やかな声が響いた。老年の男が、厨房から進み出る。
白髪交じりの顎髭、厳めしい顔。トーマス・ガーランド。四十年以上王宮の味を支えてきた重鎮だった。
「トーマス……さん……?」
白髪の料理人は、セリーナを冷たく見据えた。その目には、長年堪えてきた怒りが燃えていた。
「盗んだのは、どちらですかな」
「な、何を……」
「三年間、私は見ていました。リネット嬢が書いたレシピノートを、あなたが密かに持ち出していたことを」
トーマスは一枚の紙を取り出した。黄ばんだ紙には、繊細な文字でレシピが記されている。
「これは、リネット嬢が厨房に残していった下書きです。あなたが『自作』として発表したレシピと、一字一句違わない」
「そ、それは……!」
「さらに」
トーマスの声が、鋭くなった。
「リネット嬢を追放する原因となった『パスタが硬かった』という訴え。あの日、彼女が作ったのはパスタではなくコンソメスープでした。私が証人です」
ざわめきが広がる。
「嘘を……ついていたのか」
「なんという女だ」
「恥知らずめ」
セリーナの顔が、みるみる青ざめていく。
「ち、違います! 違いますわ! エドワード様、わたくしを信じてください!」
「……セリーナ」
エドワードの声は、氷のように冷たかった。
「私を、騙していたのか」
「騙してなど……!」
「もういい。下がれ」
「エドワード様!」
「下がれと言っている!」
衛兵に連れ出されるセリーナの悲鳴が、大広間に響き渡った。
◇◇◇
晩餐会の喧騒が収まった後、エドワードはリネットの前に跪いた。
「リネット」
かつての傲慢な王子の姿はなかった。そこにいるのは、すべてを失いかけた一人の男。
「今更だとは分かっている。だが、どうか……どうか戻ってきてくれないか」
大広間が静まり返る。各国の要人たちが、息を呑んでこちらを見ている。
「私が間違っていた。君の才能を見抜けなかった。セリーナの言葉を信じた私が愚かだった」
「殿下」
「頼む。君なしでは、この国の厨房は……」
リネットは、静かに首を振った。
「申し訳ありません」
その声は、どこまでも穏やかだった。怒りも、恨みも、未練もない。ただ、澄み切った水のように透明な声だった。
「私のパスタは、私の価値を最初から認めてくださった方にお捧げすることにいたしました」
「リネット……!」
「殿下」
リネットは微笑んだ。三年間、一度も見せたことのない、晴れやかな笑顔だった。
「パスタの茹で加減も分からない女を、お忘れください」
◇◇◇
数ヶ月後。
エドワード王子は、外交的失態の責任を取らされ、王位継承権を剥奪された。
「弟は本当に見る目がなかった」
レイモンド第一王子は、その決定を下しながら、静かに溜息をついた。病弱ゆえに政務から遠ざけられていた彼が、ついに表舞台に立つことになったのだ。
「リネット嬢の才能を見抜けなかったのは、この国全体の損失だ」
セリーナは宮廷から追放され、実家の男爵家も連座で社交界から締め出された。二度と貴族社会に戻ることは叶わないだろう。
一方、リネットはソレイユ王国で『食の革命』を起こしていた。
彼女が広めたパスタ文化は瞬く間に大陸中に広がり、『パスタの聖女』と呼ばれるようになった。
◇◇◇
「リネット」
月明かりの差し込む庭園で、アルベルト国王は彼女の手を取った。
琥珀色の瞳が、真っ直ぐにリネットを見つめている。
「君に、聞きたいことがある」
「何でしょうか、陛下」
「私の隣で、これからの人生を歩んでくれないだろうか」
リネットの目が見開かれた。
「それは……」
「君の料理に出会った時、私は生まれて初めて『美味しい』と心から思えた」
アルベルトの声が、少しだけ震えた。
「幼い頃、食事に毒を盛られたことがあってね。以来、何を食べても味がしなかった。長年閉ざされていた何かが、君の料理で溶けていくようだった」
「陛下……」
「君が作る料理も、君自身も、私にとってはかけがえのないものになった。どうか、私の妻になってほしい」
「……陛下」
「アルベルトでいい。君の前では、ただの男でいたい」
リネットは、目頭が熱くなるのを感じた。
前世でも、今世でも、ずっと料理だけが私の居場所だった。誰かに認められたくて、でも認められなくて、それでも麺を打ち続けた。
「……もったいないお言葉です」
「答えを」
「はい」
リネットは微笑んだ。涙が、一筋頬を伝う。
「喜んで、お受けいたします」
◇◇◇
それから数年後。
ソレイユ王国の王妃となったリネットの食堂『フォルトゥーナ』は、大陸で最も予約の取れない店として知られるようになった。
看板メニューは『後悔のペペロンチーノ』。
にんにくとオリーブオイル、唐辛子だけのシンプルな一皿。だが、その味は食べた者の心の奥底に眠る記憶を呼び覚ます。
「食べると、過去の過ちを思い出す」という不思議な噂とともに、大陸中の人々がその味を求めてやってくる。
「姐さん……じゃなかった、陛下」
フィオナ――今は王宮の厨房長見習い――が、困ったように笑った。
「今日もエドワード元王子から、予約の申し込みが来てます」
「そう」
リネットは窓の外を見つめた。夕暮れの空が、オレンジ色に染まっている。
「断っておいて」
「了解です! ……またですか?」
「ええ」
三年間、毎月欠かさず送られてくる予約の申し込み。そして、毎回断られる。
(私のパスタは、もう彼のためには作らない)
「姐……陛下、後悔のペペロンチーノって、どんな味なんですか?」
リネットは微笑んだ。
「さあ、どうかしらね」
本当のことを言えば、あのペペロンチーノには何の魔法もかかっていない。
ただ、食べた人が勝手に思い出すだけだ。
自分が過去に手放してしまった、大切なものを。
◇◇◇
その夜、王宮の厨房でリネットは一人、麺を打っていた。
小麦粉と卵を合わせ、丁寧にこねていく。前世から数えて、何万回繰り返した動作だろう。
「また作っているのか」
後ろから抱きしめられ、振り返ると、アルベルトが柔らかく微笑んでいた。
「今日は何だ?」
「カルボナーラ。あなたに、初めて作った料理」
「……ああ」
アルベルトの腕に力がこもった。
「あの日のことは、一生忘れない。君の料理に出会えて、本当によかった」
「私もです」
リネットは、幸せそうに目を閉じた。
(『パスタの魔女』と呼ばれた私が、今度は『パスタの聖女』か)
前世と今世、二度の人生をかけて辿り着いた場所。
ここが、私の居場所だ。
「さあ、出来上がりですよ、陛下」
「アルベルトでいいと言っているだろう」
「ふふ、では――アルベルト」
黄金色に輝くカルボナーラが、二人の前に置かれた。
湯気が立ち上り、チーズと黒胡椒の香りが厨房に広がる。
運命の女神は、最後に微笑んでくれたのだ。
パスタの茹で加減も分からないと言われた女に。
***
――数年後、大陸中に一つの言い伝えが広まっていた。
『ソレイユ王国には、食べた者の心を溶かす料理を作る王妃がいる』
『彼女の名はリネット。かつて祖国で「パスタの茹で加減も分からない女」と蔑まれ、追放された女性だ』
『だが今、彼女の料理は王侯貴族から庶民まで、すべての人々に愛されている』
『もしあなたが誰かの価値を見誤ったなら、彼女の店を訪れるといい』
『「後悔のペペロンチーノ」を食べれば、きっと思い出すだろう』
『自分が手放してしまった、かけがえのないものを』
――そして、この物語を聞いた者たちは皆、こう思うのだ。
本当に「茹で加減が分からなかった」のは、一体誰だったのか、と。




