9.信用
それから少しの時間の後、青年は馬車に乗せられて職場まで運ばれる。実際にこうしてオフィスまで戻されている間は、時間が経てば経つほど憎悪の昂りを覚えるものである。彼女は自分のしていることが人間としていかに非常識であり、非人道的な環境なのかも分かっていない。こうしたことが常態化しているのならば命がはいくらあっても足りないのだ。命の危険は伴う仕事だとは思っていたものの、死んでもいいと思っていたわけではない。社長の駒の一つで終わるくらいならば、自分の好きなように生きるべきなのである。
逆に社長の立場であるのならば、駒の一つがなくなったところでまた足せばいいだけなのだろう。以前背の高い青年がいなくなった時だってあっという間に二人の後輩が追加された。自分がここに来て仕事をしているのも誰かがいなくなった代わりくらいのものだったのだ。会社自体はそこそこ名が通っているものの、従業員が少ない理由も分かるかもしれない。青年はそこで仕事を辞める決心を付けた。今すぐにではないものの、正しい準備をして辞めるのだ。
自分の方針が固まると、少しだけ気分は軽くなる。社長の方を見ると彼女はなにを考えているのかも分からないような表情で景色を眺めている。この人がどういう経歴を経て、何を考えて今仕事をしているのかは未だに分からないままであった。
それから青年が元いたカフェに戻されたのは間もなくのことである。昼頃に刺されて、今は陽がかなり傾いてきた頃合いであったために数時間が経っただけなのだろう。依頼主側は相変わらずそこにはいたものの、青年が到着すると驚いたような顔をした。元々依頼主とは人としゃべる方でもないようであり、社長からの説明もなかったようなのだが、反応を見るに流石に代わりの者がくるものだと思っていたようだ。状況を察するに恐らくは社長が代わりの者を見つけられなかったのだろう。もしかしたら今の今まで誰かいたのかもしれないが、その人も長くはいられなかったのだ。環境が故に人手が有り余っている職場でもないため、どちらも考えられることであり残念なことであった。
の日の青年の仕事はもうほんの少しの時間そこにいればいいだけであり、大変な物でもなかった。状況を見た依頼主側が気を遣ってくれたようで、いつもより早く帰る許可を出してくれたのだ。外に出たのが依頼主自身であったならば、彼が怪我をしていたかもしれないと言うと、依頼主はいつもよりも多めにチップを渡した。社長は常識を持たなかったものの、この依頼主の感性はまともなようだ。青年は治療費に充てると言うと有難くそれを受け取って、オフィスへの道を戻った。
それから事務所に到着したのは、日が沈む少し前のことであった。同僚たちと顔を合わせると彼らは驚いたような表情を見せた。普段は淡泊な職場ではあったものの、流石にこれだけの怪我をしているのであれば見過ごすこともできない。この足で仕事をさせられたのだと言うとその場に嫌な空気も流れる。自分の身に何かあっても同じような扱いを受ける可能性があると考えると、他人事にはできないのだろう。自己責任とは言うものの自分の健康と仕事を天秤にかけると、健康の方が重要であるのは言うまでもない。同僚たちは口々に同情の声を漏らすと、遂にはその場で愚痴を言う者もいた。この時この場には社長もいなかったし、青年の村の言葉を使える者はこの同僚たちだけであったために、現地の職員というものが意味を理解できたわけではない。同僚たちは以前から抱えていた不満を口々に表に出すと、互いに悩みを相談する時間がそこで出来上がった。ここで直接的に言う者もいなかったが、きっと辞めたがっていたのは青年だけではない。同僚たちは皆、他所の村や町から来た者たちばかりであり、簡単に帰れる者もいなかったのである。わざわざ他所から従業員を集めているのはこれが狙いなのだろうか。軟禁されているような環境は風通しも良くない。青年のような外の世界のことを良く知らない田舎者にとっては、街で仕事があると言われると飛びつきたくもなるものだ。最低限の人脈でもなければ自分の堅実に生きて行く以外に選択肢はないのである。しかし好条件を掲げられてしまえば食いつかない手はない。今思えば詐欺の手法であり、まんまとそれに騙されたのだった。自分の身に何かあれば、社長はすぐに駆け付けた。はじめはそれを優しさだと思っていたが、ただ単に管理されていただけなのだろう。ここに来てからのことを思い出して行けば、いかに自分の自由が許されていなかったのかを思い出す。そういえば今自分の住んでいる部屋も指定された場所であったのだ。部屋のクオリティとしても決して低くもなく、店主の女性もコミュニケーションはあまりとれていなかったものの、悪い人ではない。しかしそこに住むと決めたのは青年本人ではなく社長の命令であった。社長と店主が知り合いであり安全を確保できるということで受け入れたが、それは社長にとって都合のいいことであったのだ。宿屋にとっても、宣伝せずに客が来るのだから利害が一致しているのだ。宿屋側には青年を虐げる気はなさそうではあったものの、社長に協力する意思はあるのだろう。そう考えるとあそこに住み続けるのも気分は良くない。できれば早々に引っ越しをしてしまいたい。仕事を辞めるつもりではあったものの、会社の様子を見るにすぐに辞められる保証もなかったため、まずは別の部屋を探すべきだろう。誰からも監視されていないところであれば、もう少しリラックスできるはずだ。但し青年の自由を許す社長の姿を想像できる訳もない。しかし悩んだところで良い方法が見つかる訳でもない。結局自分で行動するしか自分の環境を変える方法はないのであった。
それから怪我をした翌日になると、この日も青年は仕事に行かなければならなかった。青年は自分が怪我によって不自由な思いをしていることを伝えるべく、オフィスにはいつもより少し遅れて到着する。青年は今まで無断で遅刻や欠席をしたことはない。欠席も赴任早々の一回だけであり、責められるようなことは殆どない。できるだけ規則正しくいるように心がけており、周囲にもそれが伝わっていた。当然のことながらそれは会社のためではなく、後ろ指を指されないようにと自分のためであったのだが、それを活かさない手はなかった。青年の足に異常があれば何らかの措置が講じられる可能性がある。家からオフィスまでの距離に不満があることを主張できればもっと近い場所に引っ越す機会を得られるかもしれないのだ。職場の近くとなると、そこにも自由はないようにも見えてしまうが、今は兎に角あの宿屋から離れたかったのである。
青年が到着すると先に来ていた同僚たちは驚いた表情をする。怪我について聞かされていなかった者もいるため当然の反応だ。それに今まで真面目に働いていた青年が遅刻してきたのだから同僚たちも何も思わない訳がない。皆青年の方に近寄ってくると、早く席に座るようにと促した。残念だったのは今日に限って社長がいなかったことである。大抵の場合は誰よりも早くそこにいるものなのだが、今日に限ってはどこかに行っているようであったのだ。社長がいなかったからと言って全く意味がなかった訳ではない。事務員たちはそうした従業員の行動については逐一社長に伝えているようであり、間接的にでも伝わればそれでいいのである。元々時間にルーズな職場であったために、遅れたことを責められるということもあるまい。仮に青年が叱られるくらいならば、そこにいる髭の同僚の方が遅刻の回数も多く、寧ろそれが普通だと思えるほどのものであった。
それから青年が社長に直接引っ越しの話をしたのは数日後のことである。何日も心の中で温めておくこともできなかったために、それなりに早い段階で社長に伝えに行く。この頃になると足の痛みというものも殆どなくなってしまっており、口実にはできなくなっていたが、そんなことはもう面倒くさくもなっていた。その代わりになるのかは分からないが、青年は次の住居の目星をつけてから話を切り出したのである。場所はオフィスからそう遠くはなく、今住んでいるところと比べるとずっと近いところである。距離で言うならば通勤時間は今までの半分くらいのあり、職場の都合を考えてもそちらの方が良いはずなのだ。大通りに面しているようなものであり治安を加味しても条件としては申し分ない。社長の立場からするとこんな条件のいい話を断った方が不自然なはずである。しかしその話をすると社長はあからさまに嫌そうな顔をした。彼女は青年にそれを認められないと言うと、淡々と御託を並べる。本人としては理路整然と話しているつもりではあるのだろうが、聞いている側としてはそうは聞こえない。客観的に見ても難癖をつけているだけのように見えただろうし、話を聞くのすら面倒くさそうに思われても仕方のない態度であった。本来引っ越しをするのは青年自身であり、社長に迷惑をかけることは何一つない筈だった。そのため何か引っ越しをしてほしくない理由があるのだろう。恐らく青年の推測も概ね当たっており、管理下から外れるのが嫌なのだ。青年は社長に不都合もなければ、引っ越しは自分でするために迷惑はかけないのだと説明すると、社長の機嫌は次第に悪くなっていった。いつ怒ってもおかしくないような表情をする社長と、どう向き合うべきかを考えていると、急に後ろから男の声がして振り返った。そこにいたのは初老の同僚であった。
住居に関連する青年の話を聞いていて、どうやらこの男も社長に言いたいことがあるようであったのだ。初老の同僚は、社長に今住んでいる部屋があまり良くないことを淡々と話し始めると、社長の表情もそちらの話を意識する分少しだけ元に戻った。初老の同僚の話を聞くに、彼の今住んでいる部屋は欠陥が多いということであった。どこに住んでいるのかは知らなかったが、青年の部屋と違って設備が古いようである。カーテンやブラインドといったものもなければ、シャワーも壊れていて使い物にならない。会社に指定されてそこに住んでいるものの、待遇がおかしいのではないかというシンプルな不満であった。初老の男はポケットから香水の瓶を出すとそれを社長に見せて、今はシャワーが使えない分体の臭いを隠しているものの、護衛の仕事で派遣される際に会社の評判を落としかねないのだと伝える。まだ依頼主から苦情が来たことこそなかったものの、今後のことを考えれば見過ごすこともできないのだろう。会社側が用意した設備の不備となれば、社長もこの男のことを責めることはできない。初老の同僚は静かにまくしたてると、社長はそれについて反論を考えているようであまり意味のない言葉ばかりを口にした。それから初老の同僚は社長が話し終えるのを見計らうと引っ越しを所望していることを伝え、行先は青年の今住んでいる部屋でどうかという話に繋げた。
それから社長がそれに同意するまでには思ったよりも時間がかからなかった。これは推測だが、やはり社長とあの宿屋との間で金銭に関する契約をしていたのだろう。社長側としては部屋に人を住まわせるのが条件であったようであり、青年がそこから出て行くとなると不都合が生じるようだったのだ。そのため代わりの者が入るのならば、少なくともその二者間ではトラブルにならない。その場しのぎのような形ではあったものの、社長としてはそれが最善だと判断したようである。渋々ではあったものの、青年は自分の住処を手に入れることになった。初老の同僚が意図的にしたことなのかは分からなかったが助かったのは事実だ。自分一人の力で成し遂げたことでもなかったが、青年としては一つの目標が達成できたような気になっていた。考えてみるとこの街に来てから、自分の意思で何かをしようと思ったり、何かに反抗しようとしたりしたことは一度もなかったのだ。しかし足に怪我をしてから意識を取り戻したように世界が鮮明になると、漸く自分のするべきことを思い出したのであった。この日青年は仕事を終えると自分の部屋で引っ越しの支度を始めた。
引っ越し先も青年が自分で見つけたところで納得してもらえたために、話し合いは軽快に進んだのだ。引っ越し先自体は社長に伝えなければならなかったものの、それ以上には干渉されていない。幸いにして会社の名前はこの辺りで有力であったために部屋を借りるにも困るようなことはなかった。引っ越しに関して青年側に不都合があるとすれば、体調不良などを自分で伝えに行かなければならないことくらいだ。今住んでいる宿屋に関しては、宿屋の店主が嫌でも伝えてくれるためにある意味便利ということもできたのかもしれないが、それを利用したのも一回だけであり恩恵は少ない。それだけのメリットのために宿屋に住み続けると言うのも青年としては賢くないように思っていた。そう考えるとこの部屋に越してくる初老の同僚は気にならないのだろうか。青年が出て行こうとしていたことを考えると、何か良くない点があることくらいは察することができたように思うのだ。その部屋にわざわざ移り住もうと言うのには何か意図があるのだろうか。話し合いの時の様子を見るに青年を庇おうとしてくれたようにも見える。真意は聞いてみなければならなかったものの、どちらにせよ礼は言うべきだろう。
青年は自分の所持品がそう多くないことを思い出すと、カバンにまとめていつでも引っ越しができるように備える。使わない物はこの部屋に置いていってしまってもいいだろう。この部屋を次に使う人は決まっている訳であり、最近この街に来たばかりの同僚にとっては有難いこともあるはずだ。いらなければ捨ててもらっても良い。話はしておくべきではあったが、同じオフィスで働く者同士やり取りはそう難しくなかった。
それから引っ越し自体もそれなりにすぐのことであった。次の休みの日を待って移動するだけのことであり、そこに住む許可もすんなりと下りた。重い荷物と言えど、大きなカバン一つ分であり一時間もあればすべての工程が終わる。オフィスまでは十五分ほどでいけるため、その日の夕方に嫌いなオフィスに足を運んで初老の同僚に礼を言いに行った。彼の仕事の終わるタイミングも分からなかったために、自分の休みの日が一番確実なのだ。
引っ越しの話題を職場でするのはあまり賢いとは思えなかったために、青年と初老の同僚はバーへと向かう。青年はビールを一杯奢ると初老の同僚には丁寧にお礼の言葉を伝えた。それから同僚にその場の真意を聞く。意図的に助けてくれたのか、それとも偶然であったのかという話だ。同僚は笑みを浮かべると、社長やこの環境への反抗としてしたものだと語る。そもそも同僚が元々住んでいた部屋のシャワーも壊れてはいなかった。安い宿であったために宿としての品質が高かったかと言われればそれも違うのだが、最低限の生活を送ろうと思えばなんの問題もない部屋ではあったようである。しかし青年と社長のやりとりを聞いていると、青年に何かの意図があるようだと思って口添えをした形になったのだと言う。本人は気まぐれでしたことだと言ったが、青年にとってはその後の生活が変わる重要な転機であった。助かったのは事実であり、青年は改めて丁寧な礼を言うとその場を後にしようとする。話を続けたのは初老の同僚であり、青年を引き留めるとまた別の話題を始めた。ここからは彼の仕事の愚痴であり、ここの仕事について納得いっていないことが多いと言う。この街での仕事を始めてまだ数週間ということではあったものの、もう既に不満を感じているようなのである。青年の感じていた理不尽の部分もあり、それとは異なる部分もある。ただ青年よりも人生経験の長いこの同僚が言うには、こいうった会社は今まで一度もなく、条件はかなり劣悪であると言うことであった。ここまで来ると腹立たしさを通り越して呆れたような感情ばかりが芽生えてくる。青年は心のどこかで自分が社長から嫌われていて、自分ばかりが嫌な目に遭っているのではないかと思っていた部分もあったために、同僚も同じように感じているとの話を聞くと少し安心してしまう。この時点で青年の唇はすっかり渇いて割れてしまっていたが、同僚の話はまだ続けられる。
どうやらこの同僚も早めにここを離れるつもりだと言う。青年も自分の意思としては同様であったものの、たった数週間でその判断ができる同僚に驚きを隠せなかった。生きてきた年数というのも馬鹿にできないのだろう。何も経験せずに生きてきてこの歳になった訳ではないようである。この同僚が様々な言語を操れるところを見るに、他の町での労働経験もあるはずだ。そう考えると彼の言葉には説得力があるように思えた。
同僚は青年を呼び止めた理由として、一緒にやめないかという提案するためであったようで、その話は青年の心を揺する。時を見てここを離れるつもりだったのは青年の決心であり、それを変えるつもりもない。しかし会社を辞めるための手続きを知らなかったのだ。そのためもしこの同僚がそういった方法を知っているのであれば一緒に辞めない手はなかった。青年はまだ成人を迎えたばかりであり、この先の人生も長い。ここで時間を無駄に使ってしまえば、青年の生きている時間を減らすことにもなるのだ。同僚の目には信頼できるものがあるようにも思えたが、一度青年は冷静になると辞めるための方法を尋ねる。一度社長に騙されているため、ここでも簡単に信じてはいけないことを思い出したのだ。今まで青年がこの場で見てきたことは、この会社から急にいなくなった背の高い同僚のことくらいである。あの同僚だって本来はもっと前に辞めようと思っていたに違いないのだ。会社側に何かをされたにしても、会社に関係なく体調を崩していたとしても、辞める方法があるのならば早期に辞めていたと考えた方が自然である。そう考えると何かの拘束力が働いたのか、他の理由があるのかと考えてしまうのだ。青年は真剣な眼差しで同僚を見つめると、彼は笑顔で答えた。そもそもの話、会社側に退職を阻止する権限はない。この大きな街ではそんな法の整備もされていない。そのため雇う側も雇われる側もお互いにお互いを縛ることはできないはずであった。但しそこで例外もあり、従業員が辞めたことによって会社に明らかな損害が生じた場合には賠償を請求される可能性があるということである。同僚が続けるには、こうしてスタッフの人数の少ないのにも、そのあたりの調整が含まれているのではないかということであった。依頼主からの支払いを給料として分配ことを考える従業員は少ないに越したことはない。従業員が少なければ少ないほど社長の懐に入る額も増えるためそれはそれで合理的だが、どうやら別の理由もあったようである。会社側への過失が少ないタイミングで抜ける分には何かを言われる筋合いもないはずであるため、その時を待つのがベストであると言うのが同僚の話であった。詰まりは会社側がボロを出した頃合いである。機会を伺っていたこと自体は青年も前からしていたことではあったものの、明確な根拠を得られたことは収穫だ。話を聞いて疑問に思うこともない。それならばこの同僚と手を組んでも良いのではないのかと思った。引っ越しの件で仮があるのも考慮しなければならなかったし、利用されないようにだけ気を付ければいいのだ。全てを話す必要もなければ、完全に信用する必要もないが、今は同じ目標を持つ同士で同盟を結ぶだけのことである。青年は手を差し出すと同僚と固い握手をする。それから両者の間で納得のいったような顔をすると、今日のことは内密にするように約束を交わしてその場を後にした。味方の一人でもできたのだと思うと精神的には大きな存在であり、久しぶりに気も休まるような気がした。




