8.危険信号
青年がこの街に来てから三か月ほどが経っていた。この頃になると青年の仕事に対する熱意というものはすっかりなくなっていた。仕事も時間の経過を睨むだけであり、給料も特別良いと言うこともない。何かに期待しようものならそれも裏切られるだけであり、業務中は心を無にすることばかりを考えるようになっていた。同僚たちとも積極的には話さなくなり、必要最低限のやり取りだけで一日を乗り切る。もうここで得られるものもないようには思っていたものの、たった三か月で帰郷するのも格好悪いように思っていた。
あれだけ心配かけながらもこの街に送り出してくれた家族のことを思うとこんな少ない収穫だけで帰る訳にもいかない。せめて何かもう一つでも土産をもってからでなければ帰るに帰れないのだ。それに自分が辞めると言えば社長が良い顔をしないだろう。
自分の小さな村が、大きな街の有名な会社の目の敵にでもなってしまえば後々どんな悪影響を生むのかも分からない。去るのならばできるだけ穏便にしなければならないだろう。少なくともここに一年ほどはいて、一定の評価を受けてから帰るのだ。同僚たちとは深く関わる気もなかったものの、自分の印象を上げるためならば利用しないこともない。青年がそんなことを考えている中で、話しかけてきたのはふくよかな同僚であった。
ある日の仕事上がりに、ふくよかな同僚は青年にトレーニングを教えてほしいのだと言ってきた。流石に今の状況に危機感を覚えたのだろう。面倒くさいとは思ったものの、了承すれば同僚からも社長からも印象もよくなるはずである。基礎のトレーニングに関しては特に隠すこともなければ特別なこともしていない。教えたところでなんの損害も発生しないと思うと、二つ返事でそれを了承した。この日に関して言うと、もう日も暮れかけてきただけに翌日からという条件を出したが、それで問題はないようであった。翌日の青年の仕事は午後からであり、午前中にはそうした時間が十分にとれる。同僚とはまた朝に待ち合わせをするとその日はそこまでであり、明くる日の朝までは何事もなく過ごした。
それから青年は次の朝目を覚ますと、予定通りの時間に間に合うようにと早めに起きる。早朝からの仕事がある日に比べると幾分も朝はゆっくりで、ストレスもない。元々朝に強い訳ではないため、いつものように不機嫌そうな顔で外に出ると夜の内に雨が降ったようで、道は川のようになってしまっていた。青年はと言うと時間には遅れないようにと少し早めに出ていたために焦らずに遠回りをして職場に向かう。安全な道を選ぶといつもよりも更に遠いもののそれ以外はいつもと何も変わらない日常だ。この日も何事もなく過ぎればそれでいいのだと思っていたのだが、残念だったのはそう上手くいかなかった点である。職場についてみると体に傷を負った同僚が一人いた。
傷を見るに事故ではなく、誰かにやられた跡のようになっている。青年からしてみればこの安全な町の中でどのようなことをすればこのようなことになるのか理解ができなかった。仮にも人を守る側の立場のはずにも関わらず、何もないところで傷を負わされてしまっているのは良くないことである。きっとこの街での振舞い方がまだ分かっていなかったのだろう。その同僚は先日新しく入ったふくよかな同僚であった。見た目からしても強くなさそうであっために襲うなら絶好の標的であったに違いない。自分が誰かを襲う側だったとしてもターゲットには丁度いいと思ってしまう見た目である。何があったのかと聞けば、夜の内の雨で道が水浸しになっており代わりの道を通ったそうである。青年ほど余裕を持たずに家を出てしまった同僚は、遅れないようにと道を選ばずに通った結果襲われたと言うことであった。そんなことをしてしまっては当然のことであり、聞いているだけでもため息が出てくる。自分の身を守ることもできないのならこの仕事は向いていないと思ってしまうのだ。冷たく思われるかもしれないが、早いうちにやめとかないと次は命を取られるかもしれないのである。本人としても自覚はあったようで、そのために青年にトレーニングを教えてもらおうと思っていたようだったが、残念ながらその前に起きてしまったことであった。
青年が呆れていると、そのうち社長が到着して傷の様子を見始める。この日のトレーニングはできないのだと判断し、青年は自分の席に戻ろうとすると背後から信じられない言葉が聞こえた。社長が放った言葉であり、それは怪我の責任の一端が青年にもあると言う話であった。耳を疑ってしまうような内容だが、考えてみてもどこに非があるのか理解できない。ついカッとなって社長に抗議の言葉を返すと社長は二つの視点から青年を批判した。まず一つに、先輩スタッフであるにも関わらずこの街のルールを伝えなかったことについてである。青年の立場からすればそんなことを教えるようにとの指示を受けていない。そもそも人の命や生活は本人が管理するしかなく、リスクを承知でこの街に来ているはずである。今まで青年だって誰からもそんなことは教わってはいないし、責任を問うのならば会社にあると考えるのが普通のはずだ。それから二点目に、トレーニングについては教えることに青年が承諾していたことだ。昨日のやり取りを社長も聞いていたようであり、勝手な解釈によって青年が何もかも伝授すると思い込んでいるらしい。青年からしてみれば簡単なトレーニングのやり方を教える程度であり、それ以上のことは知らない。何かあった時にどう立ち振る舞うかなんてことは本人の責任であり、仮に自分がしてきたことを教えたからと言ってそれがすぐにできるはずもなかった。全ての言い分を加味しても、社長が支離滅裂なことを言っているのは誰の目にも明らかのはずであった。新人に責任を押し付ければ会社の印象が悪くなるため、他の従業員に押し付けたかったのだろう。
責任転嫁するにしろもっとマシな言い分があったはずである。それを目の前で見ていたふくよかな同僚も何も言わずに黙っていたために、それも青年の心を逆撫でた。謝罪や責任の在り処を訂正するような言葉が見られればまだよかったはずだが、そういった言葉が耳に入ってくることはなかった。新人であり社長に口答えする度胸もなかったのだろう。ここに来てまだ日が浅いため、従う以外に選択肢がないのは半ば仕様がないことではあった。
この日から青年はこの後輩にも、社長にも協力的になることを諦めた。それが自分の村にとっていいことではなかったとしても我慢できなくなっていたのである。まだ若い青年にとっては自分を抑えているだけでも限界を感じることであり、誰かのために動くことはできなかった。それからまた数日の後に新しい同僚がまた一人増えた。今度ここに来たのは初老の男であり、年配の同僚よりは少しだけ若いと言った見た目をしている。渋い見た目を見るに仕事のできそうな男だ。聞くに出身地はまた別の町ではあるものの、この町には以前も別の仕事で来たことがあったそうなのである。なんとなく察するに、パーティーで出会った男のしている仕事と同じような類のことではないかと思う。この後輩の町でもこの会社の仕事の従業員を募集していたために、こうして新人としてここに来たようだ。男は複数の言語を話すことができるようであり、青年の村で使われているものも例外ではなかった。多少訛りのようなものは感じたものの、コミュニケーションに差しさわりの無いレベルで話しかけてくる。歳はかなり上だったが、見た目以上に気さくな性格のようだ。はじめ、青年としてはここでも積極的に関わろうとは思わなかったのだが、後輩の男の方から話しかけてくるだけに無視することはできなかったのである。気のいい男であり、話していても不快感もなければ心配な要素も見られなかったために、この街で久しぶりに気の許せる相手だと思ったのだ。青年としては自分に悪い影響がなければ関わることも嫌ではない。寧ろ愚痴を零せる相手ができたことはプラスの影響でしかないのだ。それから数日の間、久しぶりにいいニュースがあったのだと気分がよく仕事をしていると足元を掬われるような出来事があった。
それはいつものようにただの見張りの仕事をしていた日のことである。場所はこの街での最初の仕事で派遣されたカフェであり、この日も特に何かが起こるような気配はなかった。見え見えの方法で犯行に及ぶような人物もいるはずはなかったものの、何か不審な人がいれば気づかないはずもない。多少鈍っている部分があるのは否めなかったが、今回の件に関しては違和感を少しも覚えなかったのである。この時の青年と言うのは、業務から少しの時間離れてもよいのだと依頼主から許可を得ていた。丁度昼食時であり、どこかで食事をとってきてもいいのだと言われその場を離れたタイミングである。その時の依頼主からも他所の店で甘いものでも買ってきてほしいと言われたために、わざわざ店から離れた瞬間であった。
一瞬何が起こったのか理解できなかったが鋭い痛みが太股を走る。下を見るとナイフのようなものが服を貫いていて血が滲んできている。油断していたのは否定できないが、ここは店の目の前であり路地裏でも何でもない。天気のいい真昼間の人通りのある場所で誰が青年を狙うだろうか。状況が状況なだけに油断していたと言われれば否定はできないが、周囲の警戒を怠ったつもりは少しもなかった。こんなことはここに来て一度もなかったために俄かには信じがたい。はっとして辺りを見渡すと、自分を刺したその人物はもう既に走り去っていくところであり、見えたのは小柄な男の後ろ姿だけであった。この距離感でずっとつけられていたこともあり得ないし、後ろ姿に身に覚えもなかったため通り魔なのだろう。あまりに急だったために対応に遅れたが、今頃捕まっていてもおかしくない。目撃者もそれなりにいるはずで、そのため犯行を隠すのは容易ではないはずであった。今は犯人が誰かよりも自分と依頼主の心配をするのが先だ。職場に迷惑をかけたとなればまた社長に何か言われるのも分かりきっている。自分の意識を強く持つように念じると、自分の足を引きずって職場まで歩くことにした。怪我さえなければものの数分で移動できる距離ではあったが、その数百メートルがあまりに遠く感じたのは言うまでもない。依頼主に言い遣わされた休憩時間は一時間程度であり、その間に代わりの者にお願いするのだ。
朦朧とする頭で犯人について考える。全く心当たりがなかっただけに返って気になるのだ。人を刺すほどのリスクを背負うのならば金銭を奪うくらいのことをしてもいいように思うのだが、何かを取られたということもない。何もヒントがないことを考えると頭のおかしい人物の仕業なのだろうか。そういえば最近身の回りにあった傷害事件と言えばふくよかな同僚が襲われたことである。彼女の傷を考えると自分ほどではなかったものの、やはり何かを取られた形跡はなかった。捕まったという話も聞いていないため、同一犯の可能性もあるのだろうか。考えれば考えるほどよく分からなくなっていくのは青年の頭に血が回っていなかったからなのかもしれない。命に別状があるほどの怪我ではないものの、出血は酷く、痛みの程度も普通の生活では体験しないレベルであった。自分の業務に関しては死と隣り合わせであると言う覚悟の上でしているため、今更驚くべきことでもない。予めこうなった場合のことをシミュレーションできていなかった自分のミスだろう。報告くらいできなければ護衛として失格だ。必死の思い出職場の前まで着くと大声で中の者を呼ぶ。安心からか遠くなっていく意識の中で見たものは、受付の従業員が慌てて出てきてところまでであった。
それから幾許かの時間が過ぎた後に自分を認識できるようになると、そこは医療施設であった。知らない天井が目の前に広がっているだなんてことは物語の世界ではよくあることだ。白く清潔そうな壁が、ここが治療を目的とした施設であることを明確にしていた。
目を覚ましたのも痛みによるものであり、傷口のある方の足を動かした時に走る激痛が青年を寝かせたままにはしておかない。動かさなければそこまで酷いものでもなかったのだが、歩くだけでもそれなりに響く。目に見える形の怪我は久しぶりであり、忘れていた感覚が蘇ってくる。我慢できないこともないが、無理をすれば傷口は広がる。一度できた痛みを退けるには、今は余計なことをしないで療養に尽くすのが賢明なのだ。
青年はまた天井を見ながら自分やその周りの観光について考える。先日ふくよかな同僚が事件に巻き込まれた時に責任を負わされたのは青年であった。そこに自分の非があるとするのならば、隙を見せたことくらいなのだろうと思い、気を引き締めたはずだったのだがどうにも上手くいかない。今までこんなことがなかったことを考えると、油断による負傷は前よりも集中していないように見えてしまうだろう。真面目に過ごしていたつもりであったものの、また考えなくてはならないことが増えてしまった。この後社長に叱られるのも目に見えている。この環境では誰かが誰かを心配することもそうないため、ただ自分の評価が下がるだけだ。ふくよかな同僚がそうしたものに巻き込まれた時も、自分の心に心配だなんて感情は湧かなかった分仕方のないことだ。あの後輩がこの街での生活に向かないのだと思っただけであり、それ以上のことは何も思わなかった。しかしこうして自分がこの街で来てからのことを考えると、自分もすっかり毒されていたように思う。もう少し誰かを思いやる心も持ち合わせていたつもりが、いつの間にかなくなってしまったのだ。この街に来る前、詰まり村で同じような仕事をしていた時も危ないことは何度か経験した。しかしその時はお互いに心配をし合ったものである。依頼されて行った時もあったが、依頼主とだってある程度は程度信頼関係を築けていたはずだ。小さな村のコミュニティだったからできたことなのか、それともどの環境でもできることなのかは未熟な青年には判断できない。ただ自分のあるべき姿を思い出すと、小さな深呼吸を一つした。
それから青年は体を起こすと自分の足の痛みと向き合う。痛みの強さから察するに、歩くの自体はそのうちできるようになるのだろう。包帯でぐるぐる巻きにされていたために傷口の深さや広さといったものは見えなかったものの、使い物にならなくなった訳ではないことは分かる。痛みの程度で言うのならば、以前骨を折った時の方がよっぽど強かったように思えるため、今回のような局所的な痛みであれば問題ないように思うのだ。気にならなくなるまではせいぜい一週間ほどだと思うため、治るまでの少しの間療養させてもらえばいい。今までの仕事を考えると、完治しなくても何か事件が起こると言うこともないはずだ。仮に何かあったとしても、百パーセントの力では動けなくてもなんとかできるはずであり、誰もいないよりかはずっといいだろうと思った。青年の頭の中で向こう一週間の予定が出来上がると、後は栄養を取って休む気でいたが、それを許さなかったのは社長であった。
青年の頭がまとまった頃に現れると、にこやかに病室へ入って来る。体調を崩した時も部屋に来たし、オフィスにいる時間もあることを考えると普段はどこで何をしているのかは分からない。はじめの内は面倒見の良い人なのだと思っていたが、お節介で物事に首を突っ込むのが好きなだけだ。青年の体の処置としてはこの施設で十分にしてもらえているだけ、事件当時のことを聞きに来たのだろうか。まさか見舞いに来るような人柄でもないとは思っていたが、自体は青年の思っている以上に良くなかった。叱られることくらいは覚悟していたがそれだけではなく、話が終わると青年にすぐに仕事に戻るようにと命じた。青年としては一瞬理解に苦しんだ。この「すぐに」というのは青年の中の認識と大きくかけ離れていたからである。自分の足のことを考えれば一週間でも「すぐに治った」と言ってもいいように思えるのだ。しかし社長の放ったその言葉の意味は「一週間」でも「二、三日」でもないことは表情を見れば分かる。詰まりは「意識が戻ったのなら今すぐ仕事に戻れ」と言っていたのである。状況に思考が追いつくと、青年の頭の中は怒りで支配されそうになっていたが、飽くまでも平静を装って確認する。労いの言葉の一つもない時点で青年も半ば諦めてはいたものの、自分の聴き間違えや勘違いではないことが分かるとまた一つため息が出た。それから自分の今の仕事の内容を考えると大きく的の外れた指示なのだと思ったのである。こうした仕事である以上、自分の身の安全が保障されていないことは覚悟の上である。ただそれは仕事開始の段階で健康である前提であり、負傷中の今仕事を命じられるのとでは大きく話が違った。人を守るための仕事をしているはずだが、守られる立場にもなり得る状況の者を派遣するのは依頼主にも失礼だと思うのである。青年を襲った犯人の真の狙いが依頼主であるのならば、自分で傷を与えた人物がそこにいるのは好都合のはずだ。今の状況だけで言うと自分が行くくらいならば、一般人でも立たせておいた方が見かけという意味でも役には立つのだろう。立っているだけでも負担になる自分が護衛に向いていないことくらいは子どもでもわかることなのだ。その上で青年に行くようにと指示を出すのだから嫌がらせ以外の何物でもない。「仕事に戻る」という言い方をしていたあたりから察するに、依頼主に何かあったという訳でもないのだろう。青年は自分のミスでそこに迷惑が掛かっていないのを聞くと少しだけほっとした。これでもし依頼主の身に何かが起こってでもしたのならば、会社の信用というのは大きく下がる。今となっては、それ自体は構わないのだが、社長はその責任が青年にあるのだとまた言い始めるのだろう。面倒くさいことが重なってしまえば、それこそこの街に居たいとも思えなくなってしまう。既にかなり限界に近い気持ちではいるものの、決定打になってしまうだろう。再び出そうになったため息を深呼吸でごまかすと青年はゆっくり立ち上がって足の様子を見た。
そもそも起き上がろうとする段階で激痛が走っていたのだが、それを一瞬のものだと思い込み奥歯をかみしめる。そうして何事もなかったかのように直立すると今度は右足を浮かせたままで軽く動かした。痛みは立ち上がった瞬間が一番ひどかったものの、立ってみれば案外そこまででもない。走れるかと聞かれればできないのも明確ではあったが、悟られないように振舞うことはできなくもないレベルであった。健常で居るように歩くことが限界であり、目の良い人物が見ればそれも違和感を覚えられてしまう程度だ。幸いにして社長はそのあたりのことに興味がないようで、仕事にさえ向かうと言うのならばそれ以上は何も言わなかった。彼女にとっての興味は、従業員が使い物になるのかどうかのことくらいであり、替えの利く部品としか思っていないようであった。




