6.蝕まれ始める身体
それから目を覚ました時に感じたのは青年の体の変化である。体内の消化器系に異常があるようで、酷い熱と吐き気に襲われていた。前日に食べた何かが影響しているのだろうと思ったが、思い当たるのはあの油で揚げた何かだ。あれ以外で体に影響を与えるものも考えられない。この街の食べ物が自分の体に合っていたのかどうかも分からなかったが、ここまで直接的に体を蝕むものが他にあるのかと聞かれればまず答えられない。今はトイレとベッドを往復することで精一杯だったものの、職場には連絡も必要であった。正直ここから職場まで行くだけの体力はない。苦肉の策ではあったものの、この宿屋の主人に体調が悪いことを伝えて何かの方法で伝えてほしいのだと言った。言語は分からないものの、青年の顔色と様子を見れば誰だって言いたいことは分かるのだろう。宿屋の主人の方も流石に様子を察したようであり、薬を渡すと部屋に戻るように促した。主人の方が今の様子を職場に伝えてくれる保証はなかったものの、青年としては自分が動けなかったことの証人がいてくれればそれでいい。後で仕事を休んだ理由を聞かれた際に言い訳が聞くようになっていればそれでいいのだ。逆に言うとあの社長のことであり、そうしたことをしていなければ何を言われるのかも分からない。この街に来た翌日から仕事を始めさせるような人物であり、人の扱いが真面ではないことくらいは十分理解している。但し、この街で仕事を続けようと思うのならばそれを受け入れて行かなければならないのだろう。青年は先のことよりも、今は自分の体のことを考えるべきだと思い出すとそこからは眠っているだけの時間を過ごした。
それから社長が部屋を訪れたのはお昼過ぎのことであった。職場の様子から察するに、丁度昼休みの時間帯だ。いつものようにやたらといい姿勢のままで部屋を訪れると決して優しくない張った声で話しかけてくる。話の内容だけ聞くと責めるわけでもなく、どちらかというと病人をいたわるような内容であり悪意は感じられない。言葉の端々から人手不足という点での不満を感じるものの、きっとこれは無意識なのだろう。わざわざ様子を見に来てもらえたことには感謝をしていたし、来てくれたことによってその日の休みは保証された。社長は青年にこの街での食べ物についての注意点を話すとそのうちすぐに帰って行った。彼女も彼女で仕事があるはずであり、社長という立場は忙しいのだろう。青年は今後の体調管理についてのことを肝に銘じるとそこからは眠って過ごすだけだった。せっかく得た休みでもあるために、余計なことをせずにただ動かずに過ごすのだ。時間の経過は長かったものの、皮肉なことに昨日一昨日の仕事を考えると大差もないようにも思えた。
それから青年の体調はその日の内に回復した。日が沈む前には動けるようにはなっていたのだが、大事をとってその日はそれ以上何もしないことにしていた。どうせ翌日にもなれば嫌でも仕事に行かなければならない。それに伴って買い物でも他の用事でも済ませばいいのだ。変わらない日常がまた明日から始まることは分かっているため、こうした理由でもなければ自分を見つめる機会もない。体調管理を怠ったことは反省するべきではあったものの、今はこの贅沢な時間を満喫するのが優先であった。
それから翌日以降は実際に繰り返しの日々であり、どれほど重要なのかも分からない護衛の仕事を毎日のようにこなした。体調を崩す前と変わったことがあるとするならば、青年は自分の体をまた鍛え始めたことくらいである。
事柄空き時間というものもできやすかったために、少しずつトレーニングをする時間を作って体が鈍らないようにと努めていた。職場や依頼人に待機しているように命じられた際には十分その時間があった。ここに来てからというもの実戦経験が全くと言っていいほどない。平和なこと自体はいいのだが、それは体だけでなく感覚が鈍ってしまうのではないかという不安にも繋がる。そもそも青年としては、村にいる時よりもずっと忙しくなるのだと思い込んでいただけに拍子抜けしてしまうほどなのだ。労働時間だけを考えるのならば村にいた時よりもかなり長いのだが、その殆どの時間は何事もなくただ時が過ぎるのを待つだけなのである。
この日も青年は職場の自分の席の近くで体を鍛えて仕事の話が来るのを待っていると事務員ではなく社長がこちらへと向かってくるのが見えた。失礼のないようにと席に戻って姿勢を正すと、案の定自分の方へと寄ってくる。彼女は何やら書類を持っており、それはいつも持ってくる依頼書に比べると幾分も分厚かった。機嫌の良さそうな態度で近づいてくると青年にそれを差し出す。どうやらそれは労働条件に関するもののようであり、会社の決まりとして定期的に条件を更新しているようであった。青年がしなければならないことと言えばそれにサインすることである。面倒ではあるものの仕事を続けていく上で必要な手続きだ。とりあえず受け取らないことには始まらないため、それを手にするとやけに細かい字で労働条件が書かれている。これでは目を通すだけでも丸一日かかりそうではあり、現地の言葉で書かれたそれを翻訳する作業だけでも給料が必要なほどであった。あまりに不親切な作りは事務員が作成しているからなのだろうか。概ねの同僚たちは読みもしないでサインをしているようであったが、青年の性格を考えると確認はするべきだと思った。当たり前のことではあるものの、するのもしないのも当人の自由である。青年は一通り目を通してからサインをすると告げるとそれをデスクに置いてトレーニングの続きを始めた。サインをするのにも期限というものが設定されていた訳でもないようであり、それ自体には問題はないようである。社長の方もトレーニングをしている青年の姿を見れば、それ以上何も言ってはこない。そのためこの時間、青年は翻訳作業から逃避するべく一層トレーニングに力を入れた。
青年の体が村にいた頃と相違ないほどになったのは、それから一か月ほど後のことである。いつものように仕事を終えて帰宅しようとすると青年を呼び止めたのはまたしても社長であった。彼女は青年に声をかけるとこの後の予定を確認する。青年の方は当然こんな時間から予定がある訳ではなく、帰って体を休めるばかりであった。しかし残念だったのは仕事を任されたからである。厳密言うのならば仕事ではなく、飲みの場に参加しろという命令である。断っても良い話であるのならば間違いなく断るものの、社長に言われてしまえばそれもできない。特に追加の報酬もでないようであったために、自分の時間を返上しての接待のような形だ。これがもし正式な仕事であり、報酬が出るのならば目くじらを立てるほどのことではない。しかし今回に関しては護衛の仕事でもなければ、わざわざ人の多いところに行けと言う話である。気を遣うようなところに行けと言われて楽しい筈もないが、この街の有力者もいるということで見学に行けと言うことであった。青年の立場からすると言語能力も含めてできることに限界がある。自分が行くくらいならば他の先輩方に頼んだ方がよっぽど役に立てるものだとは思ったものの、直々に言われてしまえば言い返すことも許されなかった。気に食わなかったのは、飽くまでも青年が「遊びに行く」という体で行かされることだ。実際食べ物や酒は振舞ってもらえるようであり、悪い扱いはされないようではあったものの、何も青年が望んだわけではない。静かに平和に暮らすことをモットーとしていただけに、華々しい社交の場などに興味を持ったこともないのだ。聞かれないようにため息を一つ吐くと社長の話を了承する。それから今の服装のままではよくないため、一度家に戻って自分の荷物の中からできるだけ綺麗な物を選んで身に着けた。
普段の場なら目立ってしまうような服も、社交の場に居れば返って目立たなくなる。それに社長には人間関係を構築できれば御の字だと言われているため、出会った人に失礼な印象を与えるのはご法度だ。最低限その場にいて、自分からはアクションを起こさないでおこう。運よく出会いがあるならそれでいいし、何もないならそれで叱られることもないだろう。割り切って立ち上がると少し暗くなってきた街の中を目的の場所まで移動するべく歩いた。歩この辺りを歩いていいのはこの時間までが限度だ。帰りは馬を使わなければならないのだが、そうした会場には来客者用の馬が来ているのだと聞かされていたために特に心配はしていなかった。
地図をみながら指定されていたところへと向かうと、そのあたりには少し大きな建物の並ぶ街並みが広がっている。目的地の所在は少しだけ入り組んではいたものの分かりにくいというほどでもない。案内に従って進むとそこには青年としては今まで見たことのないくらいの大きな館が立っていた。これからここに入っていくのかと思うと緊張してしまうほどである。セキュリティも頑丈そうで、細長い形になっている入口には屈強そうな男が何人も立っていた。青年は予め社長にもらっていた入館証を見せると何も言われずにそこを通過する。特別待遇のようで悪い気はしないが、その先自分がどうしたらいいのかも分からずに不安も覚える。壁に施されている装飾の数々は、青年の身なりを考えると不釣り合いなのだ。裕福な暮らしをしてきた訳ではなかったものの、青年としてはそれを羨ましいとも思えない。金持ちの趣味は理解できないのだ。住んでいる世界が違うだけにそういった世界があること自体も知らなかったものの、こうして眺めて魅力を感じるかと言われればそうでもなかった。社長に命じられて来ているから少しもいい気分にはならない。これが親しい友人や恋人と来ていたのならば印象も違ったのだろうか。そもそもここに来ている人たちはどういった人々なのだろうか。辺りを見回しながらその場を進んでいたものの、人で溢れる会場では状況が全く見えなかった。とりあえずうろうろしながら時間が経過するのを待つだけだ。
青年が奥へと進むと中央の開けた場所が見えてくる。大きな楽器が並べられ演奏者たちは陽気な曲を奏でている様は、知らない曲ではあったものの気分の悪いものでもなかった。集まった客たちはそれを聞きながら歌ったり踊ったり、それからテーブルの食べ物をつまんだりしていた。青年もそこにあった食べ物を自由に食べていいのだと理解すると退屈しのぎに食べ続ける。それで叱られたくもなかっただけに口に運ぶ回数こそ少なくしたものの、できる限り腹を満たそうと試みた。
上品なことかと聞かれれば決してそんなことはなかったが、他にすることもなくなれば暇を潰せることもなかったのだ。辺りを見回しながら食を進める。この街にはこれほど多くの裕福な人たちがいるのだから、護衛の仕事がなくならなくても理解できる気がした。
逆に言うとこの街に来てから貧しい人たちも大勢見てきた。貧富の差から金を持っているものが狙われたところで何も不思議ではない。自分の知らない世界を見ると言うのは発見を得るには悪いことではなかった。但しこういった場所に来るのならばやはり自分の意思で、自分のタイミングで来たいという考えも変わらない。気を取り直してテーブルの上の食欲をそそるものを探していると一人の人物と目が合い会話になった。
一人の男であり、どうやらこの街の人物ではないようである。普通に考えれば青年の方からは話しかけないのだが、珍しくそうしたことをしてしまった理由は顔つきが似ていたからだ。聞くにその人物は青年の故郷の村の近くの町の出身であり、言語も共通のものを使用していた。顔つきが似ている人自体は、この街で生活していれば何人も目撃する。大きな街なだけあって、人種はかなり混在しているのである。しかしだからと言って言語まで同じかどうかは分からない。今回の件は本当に運が良かっただけなのである。青年はその男に普段何をしているのかと聞くと、どうやら彼は故郷の村の近くで政治をしているのだと言った。政治と言っても特に何かの権限を持っているわけではなく、ただ単に交流と言う名目で派遣されてきただけのことである。町と街の友好関係を示すためにここに駐在していて、今日も立場上こういったパーティーのような社交の場に来るのが仕事のようであった。こうした場所で同胞と会うと気分が上がってしまうのはどうしてなのだろうか。相手の方が良い身分にいるのは身なりを見れば分かることであったために、できるだけ失礼にならないようにと挨拶を交わすと他愛のない会話を繰り返した。大抵はお互いがいつ頃この街に来て、どんな仕事をしているのかという話であり、更にこの街の印象や注意点などの情報交換をしただけである。この街の治安が良くないことはお互いに知ってはいたものの、人の大勢集まっている中であまり肯定的ではない話をするのは賢くないのだと判断して言葉に気を付けながら話す。中には思ってもないことも織り交ぜたが、こうした場を楽しい思い出にするにはそうしたことも必要な手続きのことのように思えた。
それから十数分そこで話した後に、その男は一枚メモを差し出してそこを離れる。受け取ったものを見るにそれは彼の名刺のようなものであり、彼の所在地や立場について書かれていた。立場に関して言えば、青年の知識では全く理解できなかったがお偉い様なのだろう。ここで一つの楽しいことでもあるとは思っていなかっただけに、予想外の収穫である。他所の町に出てきて知り合いの一人でもいるのならばそれは幸運以外の何物でもない。そこからの青年は解散の刻限を待つと、来客者用の馬車に乗って家まで帰るだけだった。他に幸いだったのは、会場の料理を必要以上に食べ続けたことで、ここから二食は何も食べなくてもいいような気になったことくらいであった。




