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14.帰還

女性でありながらやたらと存在感のあるその影は紛れもなく社長のものであった。一瞬の売りを過るのは初老の同僚に裏切られたのかということであったが、どうやらそうではないようだ。仮に裏切られていたとするのならばわざわざこんな回りくどい手を使わなくていい筈である。恐らくは宿屋の店主の方から連絡が行って、この同僚が尾行でもされていたのだろう。社長としてはまさか今すぐに青年が逃亡しようとしているだなんて夢にも思わなかったのだろう。夕方オフィスで擦れ違った際のやり取りを思い出すに、計画は順調に進んでいると思っていたはずだ。青年が初老の同僚に会いに行ったのもあの粉について相談するくらいのことだと思っていただろうし、使い道を確認しようと覗きに来てしまっていたのである。しかし今青年が重いカバンを持っているところを見ると、状況が分からないはずもない。社長のミスがあったとすれば本人が一人で来てしまった点である。もし誰かを連れてきていたのならば、その者に命じて青年を捉えたのだろうがそうもいかない。しかし仮に一人だったとしても、それが青年を止めない理由にはならないのだ。

 社長は威圧するような表情を浮かべるとじわじわと青年の方に歩み寄る。余裕のある歩き方を見れば誰でもこの人物がこの街の権力者であることを認識できるだろう。人によってはその姿を見ただけで震えあがってしまうような形相であり、青年が今まであったどんなものよりも恐ろしい表情をしていた。距離が詰まるごとに緊張感が走る。足がすくまないようにと意識を強く持ち社長に立ち向かおうとした時に、先に動き出したのは初老の同僚であった。

 静かに青年の前に出て行くと、社長の行く手を塞ぐ。守ってくれるものだとは思っていたが、まだ内通者である可能性も捨てきれていなかっただけに驚かなかったと言えば嘘になる。それに青年が逃げられた後でも、同僚はもう少しこの街にいなければならないために、歯向かえばリスクにもなる。逆にここで青年を捉えるのを手伝えば、初老の同僚はこの街での地位を確立できたかもしれないのだ。そんなことを考えずに、迷わず社長の動きを止めにかかったのはこの同僚である。

 かなり年齢は高いはずのものの、それを忘れさせるほどの俊敏な動きで社長を抑える。社長の方もそれなりに強いとは聞いていたものの、現役である同僚の方が一枚上手のようだ。叩かれたり爪を立てられたりしてはいるものの、同僚は全く動く気配もしなかった。

 我を思い出した青年は、余裕そうな顔をしている同僚に礼を言うと力を込めて重たいカバンを持ち上げる。そうして急ぎ足で馬車まで辿り着くと御者は急いで馬を走らせた。後ろからは社長の泣き叫ぶような声が聞こえてきている。青年一人を止められなかったことがそんなにも悔しいことかと聞かれればそれ自体はそこまでではないはずだ。問題は従業員を取り逃がしたことであり、それがあの依頼主の方に伝わると立場も危ぶまれるのだろう。依頼主との間に亀裂が生じてしまえば今まで積み上げてきたものも失ってしまうのだ。彼女が今後この町で裕福に暮らせる保障がまだあるのかは分からないが、被害者面で泣きわめいていた姿を見ても青年は何も感じなかった。青年の立場からすれば「逃走劇」とでも言うのだろうか。彼を載せた馬車は決して早くはなかったが、軽快に地面を蹴ると街の外の方へと移動していった。暗い街の中に響く車輪の音は街の変革を意味する運命の車輪だ。きっとあの同僚のこともそこまで心配しなくてもいいのだろう。今となってはあの社長に権力も残っていないだろうし、同僚は同僚で逃げるために足はあるはずなのだ。もう数時間もすれば青年の後を追ってこの街から出て行くのだろう。青年を載せた馬車は数分の内に町の入り口まで辿り着くとなんの苦労もなくそこを通過した。

 それから田舎の夜道を走っていくのはその馬車だけだ。この頃になると元々早くもなかった馬の歩みは更に緩くなる。殆ど整備されていない田舎道は、青年に吐き気を催させるほどではあったものの、あの粉を使った後に比べれば幾分も健康的だ。空を見上げると星が瞬いている。それだけでも村に近づいているように思えるのだ。街にいた頃に見えなかったのは余裕がなかったからなのだろう。最後の日に見た街の空だってあれは本当の夜空ではないのだ。これから夏を迎える季節を肌で感じられるほど街から離れると、漸く自分の人生が自分のためにあるのだと思い出す。涼しい夜風も虫の鳴き声も全て自分が感じていいものなのだ。大きくゆっくりと深呼吸をすると次の町まではあっという間だ。あの街を訪れた際にも通った小さな町であり、御者が連れて行ってくれるのはここまでだ。馬車は次第に速度を落とすと、最後にはその歩みを完全に止めた。

 青年は馬車を降りると良く礼を言う。馬の頭を撫ぜながら同僚のことも頼むとチップを渡してその場を離れた。この町から自分の村までの馬車を頼めばもう自分の財産も底をつく。しかし金のために人生を狂わした街の人々を思い出せばそんなことは些細な問題だ。そんなことは村に帰れた後にでも悩めばいい。今はこの平凡な幸せを享受するべきなのだ。はじめは刺激や経験を求めて街へと向かったつもりだったが、それが必ずしもいい結果を生むわけでもない。わざわざ馬車に乗らなくても世界は少しずつ動いているのだ。旅に出なかったとしても人生が選択の連続であり、何もしなくても冒険が広がっていることに青年はとっくに気づいていたのであった。


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