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13.馬に乗って

 この日ほど青年が足早に進んだこともない。彼の人生の中でもそれほどまでに緊迫した状況だったのである。宿屋に行けば店主から社長に話が行ってしまうかもしれないが、流石に暗くなってきたこの時間帯に様子を見に来ることもないのだろう。同僚には自分の知っているだけの事の真相を伝え、後は馬車を手配してもらうだけだ。この街の外まで安全に運んでもらえれば、今現在それ以上に望むことはない。街の検問は昼でも夜でも関係なく働いており、当然粉を売る組織とも繋がっていないはずもなかった。ターゲットにされてしまっている自分の顔や名前が出回ってしまっていたとしても何らおかしくないのだ。脱出のために彼を信用する根拠があったのかどうかも分からなかったが、彼以外に味方になり得る人がいないことも知っている。彼を頼る以外の選択肢がないのだ。

 藁にも縋る思いで宿屋に到着すると、同僚の泊っている部屋の様子を外から眺める。恐らく電気はついていないようでそこに人の気配もない。流石にこの時間ともなれば明かりを付けなければ室内は暗いままであり、少しの作業も自由にはできないはずだ。それならば外出していると考えた方が良い。ただ年齢のいっている同僚のことならば、もしかしたら眠っている可能性もある。青年はやむを得ず店主を呼ぶと、同僚が帰ってきているのかどうかを尋ねた。

 回答は実に簡潔であり、同僚はそこにはいないようである。普段ならばこんな日にいないはずもなかったために、青年の頭の中には嫌なことも浮かんでいた。もしかしたら騙されていたのではないかと思ってしまったのだ。青年を貶めるべく業務が始まったその日に限っていないのは偶然なのだろうか。もし同僚が社長と繋がっているとすれば、自分の情報は筒抜けということになる。ここから逃げ出そうとしていることも既に知られていて、馬車を手配しようものならすぐに止められる可能性すらあった。まだ真相は分からない。ただ彼がいなければここから脱出することもできないのだ。今日一日を自分の力で乗り越えたような気になってはいたものの、こうしてみるといかに自分が無力であることを思い出す。人脈も自分の財産ではあるとは思うものの、あまりにも人任せなプランだったのだ。この日、自分がここから出られなくなったことを関上げると、故郷のことを思い出しては寂しいという感情ばかりが溢れてきた。仮にこの街から抜け出せることができた暁には、もうどこへも行かずに村でのんびりと平和に暮らせばいいのだ。護衛の仕事を続けるか、もしくは農業を教わってはじめても良い。何をしたとしても今より酷いことにはまずなるまい。ただその空想が現実になるのかと言われると、かなり難しい話であった。

 空を見上げると星が瞬いている。空気は澄んでいることもなく、星の数は村にいる時よりもずっと少なかった。青年は何気なくポケットに手を入れて考えに更けようと思うと、手には何かが当たった。ポケットの中に入っていたのは小さな紙きれである。業務中に描いたメモか何かなのだろうと思い確認すると、そこにはある名前と住所が記されていた。どうやらこれは名刺のようなもので、パーティーの時に故郷の男から受け取ったものだ。そういえばこの服は着て行ったものであり、あの時にもらったものをそのままここに入れたままにしていたのだろう。確か何かあれば頼ってほしいと言っていたのだが、それが信用して良いものかどうかも分からない。しかし同僚も頼れなくなった今、他に選択肢もないのだ。青年は道行く馬車に声をかけると行先を尋ね、目的地と同じ方向に行くものを見つけるとそれに乗り込んだ。

 それから一時間もしない内に青年は目的の場所まで辿り着く。以前道場のような施設を訪れた際に見かけた建物がそれであり、目立つ建物は記憶の頼りに進んでも迷うことがなかった。普段ならば入っていくにも躊躇いの気持ちが湧くものの、今日はそうした時間も惜しい。建物の目の前に入るなり、受付にあの故郷の男がいないかと尋ねると少し待つように言われた。柔らかい椅子に座って広い部屋を見渡すと、清潔感のあるそこには嫌な匂いもない。待合室には広告の張り紙や書物が置かれており、そのどれもが青年の村で使われているものと同じ言語で書かれている。久しぶりの感覚であり、心が落ち着かない訳もない。自分が追い詰められるよりももっと前にここに来れば、心持ちはまた変わっていたように思うのだ。今この街にはこの空間ほど安全な場所もないように思う。疲れからか少しの眠気を感じつつ暫くしていると、奥の扉が開いてあの男が顔を出した。

 どうやらまだ仕事をしていたらしく、今も時間を作って出てきてくれたようである。外はもうすっかり暗くなっていたが、まだやることがあるようなのだ。故郷の男は青年の近くに座ると、優しい笑顔で用件を尋ねる。青年は今まで見てきたことをできる限り詳細に伝えると、最後にため息も一緒に吐き出す。溜め込んできたものを全部外に出せたような感覚であり、なぜか安心してしまったのだ。故郷の男は青年の話を一つ一つ丁寧に確認すると、それを紙に書き留めた。

 話がすべて終わると、男は青年に話す。彼の立場ではこの街の情勢やその会社どうにかすることはできない。その会社がいくら悪いことをしていたとしても、この街の警察ですら取り締まれないのならば、誰にも何もできないのだ。ここには要人として来てはいるものの、そこまで影響力がある訳でもないのである。但し、青年の故郷の村やその周りの村には注意喚起を出しておくことは約束するものであり、青年の身の安全もできる限り保証するのだと付け加えた。男は青年に耳打ちすると、以前から何も知らなかった訳ではないのだと言う。パーティー会場で青年に名刺を渡したのも何かの事態に巻き込まれた際の保険のようなものであり、今回ここに訪れたのもある程度想定内だと言うことであった。外交のために来ているこの男がこの街やその会社のことを悪く言うことはできないためにこういった措置をとっているのである。勿論ここの暮らしを気に入っている者もいて、それは青年の職場で言うあの落ち着いた雰囲気の同僚であった。彼はこの街や会社についてはやはり知っていて、その上であの立場にいるのだと言う。傍から見た彼の態度は従順であり、よく飼いならされているように見えてしまう。同僚の中でも仕切り役のような立場にいて、社長に気に入られているようでもあった。よく言うのならばこの環境に順応しているのだろう。そうした背景には彼のプライベートの事情があり、それはこの街に恋人がいることであった。そのためにこの町を離れるという選択肢がそもそもなかったのである。全てを知っていれば、落ち着いた雰囲気の同僚は人質を取られているようにすら見えてくるが、本人がそれで納得しているのであればそれを止める権利は誰にも存在しない。自分の生活と彼女の人生とを天秤にかけた結果なのであり、誰もそれを責めることはできなかった。青年が会社を離れるとなると、あの同僚にもしわ寄せがいくだろう。そうなれば青年が彼に疎まれてしまうかもしれない。但し、青年にも青年の人生があり、それを人のせいにもできないのである。

 一通りの話を終えると、青年はこの街を出る決意を改めてする。故郷の男に対して、自分がこの街を無断で出ることに社会的な責任が伴うのかと確認すると、男は少し考えてから契約書の話をする。もしそれにサインをしてしまっていたのならばそれ次第で何か言われてしまう可能性があるのだと言われたが、幸い青年は契約書のサインを保留にしていたために追及される筋合いもない筈であった。青年の疑問が全て解決されると後はこの街から出ることだけがするべきことになっていた。故郷の男は受付に何かを伝えると、暫くしたらこの建物の前に馬車を寄越すと言った。こうして駐在の仕事をしている身であり、街から出ることを止められることもまずないらしい。そのため検閲で止められることもないようで、荷台に静かに乗っていれば後は自由の身になるのだと説明した。検閲の者が力ずくで青年を止めようものならば街と村の間の信頼関係に亀裂が生じるため、余程のことでなければ止められないはずだと言う。青年は今住んでいる部屋の場所だけ伝え、荷物を取るために寄ってほしいのだと言うと男はそれを承諾した。御者の方も青年の村の言語を使えるようであり、融通は利きそうな男である。

 馬車が建物の前まで来ると、故郷の男に良く礼を言ってからそれに乗り込む。そうして流れて行く夜の町並みに目を奪われた。この時点で少し感慨深い気分になっていたのは、ここにいい思い出があったからではない。楽しいことなど殆どなかったものの、自分がここで暮らした経験は嘘ではなかったために、今までの自分の生活を思って感傷に浸っていたのである。

 馬車の中で揺られながら耽っているとそれほど時間も経たずに自分の部屋の前に到着する。慎重に辺りを見回すと、荷馬車から降りていいものかと様子を伺う。ここに来て知り合いに会いたいとも思わないために、必要最低限の行動だけで部屋まで辿り着きたいのである。家の近くには通行人を含めて人影がないことはないようであったが害があるとも思えない。念のために御者には部屋から少し離れた位置で待機してもらえるようにお願いすると、小走りで家の中に入って行った。

 鍵を閉めてから自分のカバンのところへ移動すると、他に持ち物がないかを確認する。カバンの中身は事前に作ってあっただけに今更しなければならないこともない。この部屋の家主には悪いが無断でここを出ることにはなるため、月の家賃を良く見える位置に置いてその場を離れる支度をする。後は馬車に戻るだけのシンプルな作業である。御者のいる位置も確認しているだけに、一分と経たずにそこまで移動できるはずだ。その一分が過ぎれば自分は自由に慣れるのだと思い、扉の前まで来ると急に玄関のベルが鳴った。

 予想もしていなかったことであり、体が飛び跳ね上がってしまったのは無理もない話だ。今まで様々な経験をしてきたものの、今ほど心臓に悪いベルの音は聞いたこともない。傍から見れば護衛をしていたとは思えないほどに情けない表情であったのだろう。まさかもう社長やあの組織に気づかれたのかと思い、窓から外を眺めると意外なことにそこにいたのは初老の同僚である。彼がここにいる理由は、青年の邪魔をしようとしに来た訳ではなく、青年が夕方彼の部屋を訪れたからであった。その時丁度外出をしていたようであり、帰ってきた後に店主に伝えられると何事かと思って来たようなのである。ずっとここにいたのかと聞かれればそんなこともなく、近くのバーで酒を飲んでは数十分おきに様子を見に来ていたようなのだ。そうして今青年が部屋に入っていくのを確認して急いでここに来たという訳だ。こうして見ると、誰かの動向を探るのもそう難しいことではないのかもしれない。しかし青年がこの街にいるのも後もうほんの少しの時間だけなのだ。青年は今日あったことを、順を追って簡潔に説明すると、もうこの街を出て行くのだと言った。仮にこの同僚が会社側の人間だったとしても、もう青年を止めることはできない。重い荷物を持っていたからと言って、走力では青年が勝る。そのためどちらでもいいと思って話したのだ。話を聞き終わると同僚は残念そうな顔をして青年の方を見たのはそれを引き留める訳ではない。できることならばこの馬車に載せてもいいのだが、生憎同僚は荷物もまとまっていなかったためにそれが叶わなかったのである。しかし若い青年が解放されることに対してポジティブな意見を述べると、後で自分も戻るため青年の村にも顔を出しに行くのだと言った。以前話に聞いていた通り、この同僚には別のルートでの脱出方法がある。そのため彼のことは気にせずにこの街から出て行けばいいのであった。青年はもう出るのだと言うと、これから乗るつもりの馬車の方を指出す。再びあれに乗ってさえしまえば街の外まで連れ出してくれるのだ。

 青年は今までのことについての礼を言葉にして、それから荷物を持ち直すと同僚と一緒に外に出る。同僚は青年の姿を隠すかのように前を歩くと周囲を警戒した。普段守る側の立場にいる青年ではあったが、こうして守られる立場になると言うのも案外悪いことではない。本来の自分のやりたいことを思い出すと、才能がある者や正しい者を守りたいのだと思った。村に帰ったのならば改めて考えることも山ほどある。自分のことを考えながら歩くと目の前には、この街で最も会いたくない人物の姿がそこにはあった。


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