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12.小さな決断

 青年は店に入っていくと、依頼主に挨拶をする。できるだけ愛想のいい笑顔で受け応えをすると、それから依頼主から少し離れたところで待機する。やり取りを含めても過去にしてきたこととほとんど何も変わらないことである。余計なことはしないに越したこともなかったため、自分の配置につくとそこから動かないことにしたのだ。この日の客の様子も見ていたものの、常に店内にいるのは依頼主を含めて五人ほどで、そのだれもが依頼主の仲間だと思っておいた方が良いのだろうと思っていた。時折客が入れ替わりで出て行くことはあれど、その他に目だった動きを見せる者もいない。

気になったことがあるとするのならば、昼過ぎに依頼主がトイレに立った点である。トイレに行くこと自体にはおかしなことはないものの、問題なのは戻って来た際のことである。何も持たずに席を立ったはずの依頼主の手には、帰ってくる頃には布製の袋のようなものが握られていた。今までそういったことは一度もなかったために不穏である。青年はできるだけそれを見ないようにと気を付けると、気づいていないふりをして何気ない顔をした。護衛という立場を考えれば、依頼主の安全を考えて確認するのも仕事の一環なのかもしれないが、ここで自分からアクションを起こしてしまうのは賢いことでもない。一度話題にしてしまえば無視もできなくなってしまうのだろう。

 そうした態度を察したのは依頼主の方であった。後でわかったことだが、これはいつものことなのである。布袋をテーブルの上にそれを置くと青年を近くまで呼び寄せる。こうなってしまえば行かないわけにはいかないのだ。青年に袋を差し出すと、これが何なのか知っているのかどうかを尋ねた。

 青年からしてみれば、中身の分からないそれを知る由もない。反応に困りつつもその正体について尋ねると、依頼主は初めて聞くような名詞を口にした。何と言っているのかは分からないが聞いたことはあるような気がする。実際にそれが何なのかは別にしても、それが無害ではないことくらいは察しがつくのである。恐らくは話に聞いたことのある粉薬のようなものなのだろう。記憶している限りでは、使用者の思考を鈍らせて快楽物質の生成を促す作用があると言う。治安の悪い街では珍しくもないらしく、依存性のあるその物質は高値で取引されるのだとも聞いている。使用者を廃人のようにしてしまうというそれは、青年のいた村では禁止されていただけに実際に目にするのは初めてであった。普通に生きていれば縁のないものであり、関わらない方が良いとされているものだ。

 依頼主はテーブルに紙を敷き、袋の口を下にするとそれを軽く叩いて中身を振り出す。乾燥した粉ははらはらとそこに落ち、四方八方に広がる。青年は緊張のあまり凝視するしかできず、その様子を見ていた依頼者は笑みを零した。何かを言わなければならないと思った青年は、依頼主にそれが何なのかと尋ねることしかできない。本来ならば別の話題に変えたり、その場を離れたりするのが最善であったはずだったのだが、この状況でそれができるはずもない。粉が舞って店内に独特な匂いを漂い始めさせると、依頼主は青年の質問に答える。話し始めたのは成分や効能のことではなく、その粉がこの街でどのような役割を果たしているかということであった。その粉は、この街の中では通貨よりもよっぽど価値のあるものらしく、多く所持していれば経済的な余裕に繋がるのだと言う。そんなものの詰まった袋を手に持つと、今度は不敵な笑みを浮かべながら青年に提案をする。それは青年が最も恐れていたことであり、この粉を使ってみないかということであった。

 青年としては断りたかったが、ここで断れる選択肢が自分にはないことも分かっていた。もしここで拒否するような態度を見せれば何をされるのかも分からない。気のせいかもしれないが、周りにいる客たちも皆こちらを見ているような気がするのだ。

今の状況を考えると、罠に飛び込む覚悟でここに来たものの完全に裏目に出てしまっている。

 少しでも時間を稼いで最善策を模索しようと他愛のない質問で胡麻化そうとする。それが一体何なのか、どうやって使うのかという子供のような質問だ。依頼主は青年がそれに興味を持ったのだと認識し、笑顔で説明を始める。ポケットから別の薄い紙を取り出すとそこに粉を載せて巻き始めた。話には聞いたことのある光景が目の前に広がっている。紙を軽く叩きながら粉の位置を調整しているのだろうか。一連の流れが終わると今度はそれに火をつけて口元へ持って行った。口に咥えて数秒の後、肺から煙を押し出す。

見ていただけだったものの彼の気分は良さそうであり、害があるもののようには見えない。それから依頼主は自分が使ったものをそのまま青年に差し出すと、同じように吸ってみるようにと促した。警戒心を解かせるために本人が使用したのだろうが、それで安全だと納得できる訳もない。

 青年は一瞬躊躇ってから、依頼主への質問を続ける。高価なもののはずであるにも関わらず、それを自分に勧めるのはどうしてなのかという話である。自分はただの護衛の一人に過ぎず、既に報酬やチップももらっているだけにこれ以上は身の丈に合わないのだと続ける。飽くまでもその粉の危険性を知らないと言う立場を貫いてはいるが、そこに意味があったのかは分からない。見かけだけで言うならば青年の無知を信じ込んでくれているようであり満足そうな表情を浮かべている。それから依頼主は先ほど巻いたものをもう一度口に持って行くと煙を吐き出し青年の質問に答え始める。彼は普段から青年の勤めている会社には感謝しているのだと言う。言うまでもなく彼の仕事はその粉を取り扱うことであり、護衛の存在が欠かさないのである。個人的に警察を呼べるのならばそれに越したこともないが、私的に利用するのはできないのは当たり前のことだ。そのため誰かいてくれるだけでも心強いのだと語った。こうして聞けば感謝されているだけのことであり悪い気もしない。しかし冷静に考えるとこの男のしていることは合法ではなく、警察に捕まるリスクを回避するために護衛を付けているのである。危険なものを取り扱っている商売人でありさぞ懐も肥えているのだろう。個人の利益を考えれば効率の良いことなのかもしれないが、その行いが正しいことではないのは分かりきったことである。青年の視点で考えたところでその行動が褒められたことではないのも確かだ。気づいてなかったとはいえ誰かが不幸になることの手助けになってしまっているのならば今すぐやめるべきであろう。青年自身、自分が正義であるとは思わなかったが、悪に加担する気もなかった。青年の心の中には怒りが湧きあがってはいたものの、それは青年の正義の心から来るものではない。知らず知らずのうちに犯罪に巻き込まれたことに対する不満であり、論理的な部分を差し置いても許せるものではなかった。

 しかしそれを安易に顔に出すような真似はしない。怒りで我を忘れないようにと意識すると、自分の今の状況を客観的に整理する。あの粉のことを聞いてしまうと今まで疑問に思っていた部分にも納得できることが幾つもあるのだ。そもそも自分の会社が影響力を持っている理由としても、今目の前にいる男が会社のバックにいるからなのだろう。金よりも価値のある粉を動かしていると考えると、下手すればこの町では警察よりも権力のある組織の可能性すらある。実績や力量で得た信用ではなく、その粉の影響力をそのまま利用しているのだ。それならば自分を含めた従業員が誰であっても会社としては不利益を被らないはずだ。従業員が動けるに越したことはないが、他所の町から使い捨ての人間を連れてくるのもまた合理的なのだ。目の前にいる男もそうしたことを分かった上で自分と接しているのだろう。改めてその表情を見ると、もうこの男の顔も悪人のようにしか見えなくなってしまう。思い込みや偏見の部分もあるのだろうが、脳がそう認識してしまっているのだ。改めて差し出されたものを見つめるがそれが罠であることも明白だ。本人が一度口にしているのは油断させるためなのだろう。あの粉の効能がどのようなものであったのかは分からないが、依頼主の表情を見るにその粉自体に即効性があるとも思えない。それに背の高い男の残した書類を見るに、複数回にわたって指名されているため今日この一回で自分が使い物にならなくされるわけでもないはずだ。概ね社長から頼まれて、これから一週間ほどかけて少しずつ自分を廃人にしようとする計画なのだろう。今までの情報から今の状況を考えるのは難しいことではなかった。しかし今自分がどうするべきかの答えが出る訳でもない。依頼主が再び青年の方に粉を差し出すと、もう受け取る以外の選択肢はなかった。

 仕方なくそれを受け取ると、青年の手には緊張感が走っている。それからその粉の具体的な使い方を尋ねる。これは時間稼ぎでもなんでもなかった部分ではあるが、青年にタバコや葉巻を吸った経験はなかった。そのため口に持って行けばいいことくらいは分かってはいたものの、それ以上に必要な知識があるのかも知らなかったのである。青年の質問に依頼主は声を上げて笑う。どうやらその質問を聞いて、吸うこと自体への拒否の意識がないことが分かったからなのだろう。嫌な表情を見せない青年の行動を見るに、計画が思い通り進むことを確信したように見える。依頼主は、鼻から息を吸いながら煙を取り込み、それを肺に循環させた後で口から吐き出すだけなのだと語った。

 一通りの説明を受けた後になると、青年にもう逃げ場はない。決死の思いでそれを口にすると大きく息を吸った。煙が体を循環する感覚を覚える。まだ肺に取り込んだだけのはずだったが、違和感が頭の方にも現れるのだ。それから思考を正常に戻すと、喉に何かが詰まるような感覚がして咳き込んだ。

 一瞬溺れてしまったように呼吸が難しくなると、顔を背けて喉を抑える。それから気分が正常に戻ると涙目になりながらも依頼主の方へと向き直した。笑顔の依頼主が何かを言っていたが、少しの間のことは覚えていない。気分の悪くなるような感じではなかったものの、酒に酔ったように思考が鈍くなっているのが分かるのだ。人によってはこういった感覚が好きなのも頷けるが、体にいいものであるとは到底思えなかった。どれほどの依存性があるのかも分からなかったが、きっと適度に摂取する程度であればただの嗜好品として扱ってもいいのだろう。逆に常用さえしてしまえば、身を滅ぼすことも理解できるほどに強烈だ。たった一口だけでも今まで大勢の人の身を狂わしてきたことは察することができた。

 依頼主は、青年が一度咥えたそれを最後まで吸うようにと命じるとそこから彼を席に付けさせて様子を伺う。当然青年としては持て余さない訳もなかったが、それを断ることもできない。紙に巻かれているだけにまだそれなりの長さがあるのである。これを丸々一本吸ってしまえば自分の身がどうなるのかも分からなかった。それから青年はできる限りの思考で、手に持っている煙の処遇を考えたがそれをどうすることもできなかった。依頼主は目の前で青年の行動を見ていたために捨てるわけにもいかない。青年は立つことすら許されていなかったために、自分を籠の中の鳥のように例えた。

 それからひと段落着くと、依頼主は背の高い同僚のことを話題に出す。男は彼についてもよく知っているようで、彼もその粉が好きだったのだと言った。依頼主は気に入った護衛の者にはその粉をプレゼントしているのだと語ると、その同僚も例外ではなく少し前に与えたのだと話した。高価な粉であり、信頼していなければ見せることすらしないのだと言う依頼主の目には真実はない。彼をここに呼んで一緒に煙に興じるようになったのは良い思い出なのだと言った。青年としてはそんな嘘に騙される訳もない。少し朦朧とした頭では、彼に何をしたのかを聞きだしてしまいたいとも思ったものの、状況が悪くなる可能性を考えると何とかそれを食い止める。ここで余計なことを言えば自分の都合が悪くなることも明らかであり、依頼主側からすればそれが狙いなのも分かる。

 青年はできるだけ粉を吸わないままで灰をテーブルに落としながら聞いていたが、依頼主の話がまたひと段落すると吸わなければならないような気になってしまうために今度は青年が口を開く。話の流れから違和感の無いような話題を模索するに、結局背の高い同僚のことしか思い浮かばなかったために、できるだけ何も知らないふりをしながら尋ねる。あの同僚が今どこにいるのかと、仕事を離れた原因を知らないふりをして質問したのである。ここ最近顔を合わせていないと聞く分にはそれほど違和感もないはずだ。都合の悪いのは依頼主の方であったようであり、背の高い同僚の現在については何も知らないのだと言うと、青年が煙を口にしないことを指摘した。こうなってしまうと青年はやむを得ずもう一口だけそれを吸い、微々たる量の煙を口に含むと咽たように咳をする。意識が鮮明ではない。自分の表情があまりはっきりしていないのは、誰が見ても明らかであっただろう。演技ではないレベルで体調の万全ではなさそうな表情を浮かべると、依頼主は多少満足したようで、それ以上には何も言ってこなくなった。この日に関して言うと、これ以上何かがあった訳でもない。恐らくは青年の様子を見ながら、今後また指名しようと言う魂胆なのだろう。もしこの日も返答を間違えたり、下手に核心を突くようなことを言ってしまったりしてしまっていればどうなってしまっていたのかは分からない。

 しかしこの日に関しては何事もなく乗り切れただけで収穫だったということができた。一つ良くないことがあるとするのならば、青年の頭にはまだ痛みのようなものが残っていたことである。しかしそれは決して粉から来たものではないことを青年本人も理解していた。実は青年がそれを口にする前からそういった感覚はあったのである。その正体が何かと聞かれれば、青年が昨晩に飲んだアルコールに起因するものであった。ただ眠るためだけに摂取した多量のアルコールが、自分の身を守るために役立ったのである。青年本人としても予期しないことではあったものの、結果的に自分の身を守ることに繋がったのならばそれ以上にことはない。家に着いて再び水を飲むと、少しだけ気分もよくなったために改めて今の状況の整理を始めた。

 一番初めに思い出したのは、あの背の高い同僚がいなくなったことである。彼も青年同様にあの煙を吸わされたのは言うまでもないことだが、それがどうしてなのかは分からない。背の高い同僚よりも古くからあの会社で働いている者もいるために、社長の機嫌を損ねたと考えるのが自然だろう。本人が別の病気や怪我を理由に切り捨てられただけの可能性も考えられたものの、どちらにせよ同じことである。自分だってそれと同じ状況にある。気を抜けば自分も廃人にされており、その後のことは考えたくもない。依頼主の機嫌を損ねないように努めていただけに何事も起こらなかったが、あれでもかなり危険だったことは理解できる。明日が同じように上手くいく保証もないため、このまま続ければあと何日寿命が残るのかも分からない。

 青年は自分のカバンを取り出すと、中から小さな袋を取り出す。帰りがけに渡されたものであり、中にはあの粉が入っている。咳をしなくていいように練習しておけと言われ、持たされたのである。生真面目に使ってしまえば、彼らの思うつぼである。粉に依存させるのが目的であり、自分の過失を待っているのだ。勿論のことながらそれを吸う気は一切ない。寧ろそれを上手く使わなければならないと思っていた。証拠品として然るべき場所に持って行っても良いし、誰かにそれを売って何かの資金にしても良い。安易にそれを捨てる気はなかったために、それをまたカバンに戻すと今度はこの街について考え始めた。この街の全貌も少しずつ見えてきたが、少なくともこの辺りを牛耳っているのは今日の依頼主なのだろう。粉を売っては活動資金を作っており、あそこカフェは普通に営業している訳ではなく拠点の一つなのだ。青年のいる会社はその組織のお零れに預かる形で利益を出しており、謂わばお得意様ということになる。考えてみれば護衛をするだけで利益を出すのも楽なはずもなく、経営はその組織に頼っている部分が大きいはずである。街の人たちにとっても周知されており、それでその会社の名が知られているのだろう。そうやって考えると青年がどこに行っても無碍に扱われなかったのも納得できる。警察ですらこの辺りであまり見かけなかったのは、彼らですら手を出しにくいからである。決定的な証拠でもあれば話は別なのだろうが、組織としての力を考えると迂闊に手を出せる場所でもない。勘違いで手錠でも出してしまえば大事になりかねないのだ。そう考えると、青年があの場所にいた理由もただの護衛ではなかったような気がしてくる。誰かから身を守るのではなく、警察除けの案山子としてそこに居させられただけなのだ。

 自分が意図しないことに利用されていることに気が付くと、やはりいい気はしない。この街のからくりを知って尚、ここに居続ける理由はもうないのだ。自分の身の安全を取るよりも、自分のしてきたことを考えて今の仕事を辞めるべきなのだと考える。間接的にではあるものの自分のせいで被害に遭った人も大勢いるはずなのだ。今までだってあの背の高い同僚のように使い物にならなくされたものだってそこに含まれる。報復を恐れて慎重に事を進めるよりも、村に帰ってそれを知らせた方が何倍も役に立つのだ。

 青年はこの日のことを考えながら荷物をまとめる。殆どは昨晩に準備してあっただけに、今更することもそう多くはない。まだ開いているはずのオフィスには荷物が残っているために、まずはそれを取りに行く。それからそこから馬車に乗ると然るべき場所まで移動するだけなのだ。馬車に乗るには初老の同僚の力が必要なために、彼のいる宿屋にも行かなければならないだろう。そう考えると、まずは最低限の荷物と棒だけを持って外に出た。

 今思えばこの街に漂っている異様な匂いの正体は、あの粉から来るものなのだろう。粉の匂いを知らなかった時には気にもならなかったものの、今となってはこの街の治安が悪いと言われる理由も分かる気がする。暴力や泥棒が蔓延している訳ではなく、粉の売人とその使用者がそのあたりに蔓延っているためにそう言われるのだ。一度摂取してしまえば忘れることのできない独特な匂いはこの街に幸も不幸ももたらしている。自分もその恩恵に預かっていたのだと思うと、自分もまた意図せずこの街の一部になってしまっていたのだろう。そんな自分の立場すら快く思わない。早くここを離れたい思いばかりが先行するため、足取りが自然と早くなるとオフィスにはあっという間に到着してしまった。

 自分の会社のことを理解してしまうと、いつも見ていた光景も少し違った世界のように見えてくる。扉を開けるといつものように受付が笑顔で出迎えてくる。気のいい笑顔であり、それ自体には悪意は感じられない。彼女が何も知れない訳もないとは思うものの、どのくらいのことを理解しているのかは分からない。彼女には彼女の生活があり、それを守らなければならないのだ。同僚たちだって似たようなものだ。自分よりも先にいた同僚たち、詰まり先輩たちはどの程度のことを知っているのかは分からない。恐らく後輩の中で核心に気が付いている者もいないとは思うものの、それを伝える気もない。彼らについても気の毒だとは思うものの、混乱を招くことも分かっている。大人数で一緒にこの街を出るのがどれほど難しいことかを考えると、申し訳ないが自分の安全が優先になってしまう。そもそも簡単に説明できる者でもなければ、信じてもらえるのかも分からない。過去の自分の立ち振る舞いを考えれば、自分が不利益を被ってさえいなければ目を瞑ってしまう人がいてもおかしくはないのだ。社長に恩を感じている者でもいれば、ただ疑問に思うだけでそれ以上考えないようにするはずだ。逆に全てを知った上であの場にいるものもいる可能性があり、その場合は自分の立場が一層悪くなるだけなのは目に見えている。特にあの落ち着いた雰囲気の同僚に関して言うのならば、何から何まで知っていそうなものだ。できるだけ触れないでおくのが吉なのだろう。

 青年はオフィスの中を何事もなかったかのように真っすぐと進むと自分の荷物を全てカバンに入れて外へと向かう。まずは自分の計画の一つが終わろうと言うところで、出先から戻った社長と丁度目が合ってしまった。青年としては軽く挨拶をしてその場を通り過ぎようと思ったが、当然社長はそれを許さない。彼女は今日の業務がどうだったのかを尋ねると鋭い視線を向けた。青年の方はというといつも通りにいるのも良くないと思い、わざとらしく浮かない顔をして少し体調がすぐれないのだと言う。それを見た社長は少し満足げな表情を浮かべると、表面上青年を労うような言葉を告げてその場を後にした。

 粉の影響がどの程度出ているのかを試してきたのだろう。今日が計画の初日のためにそこまで大袈裟な振りはしなくて良かったとは思うものの、何もしないよりはマシなはずだ。不自然に思われてさえいなければいのだと自分に言い聞かせると今度は初老の同僚の家へと向かう。馬車の手配もしてもらわなければならないのだ。それに別れの挨拶も必要だ。この日その同僚もこの街を一緒に離れると言うのならばそれも構わない。とにかくまずは話に行くのが必要なはずだった。

 同僚のことを考えながらも彼の武器が盗まれた時のことを思い出す。あの時の同僚は確か、オフィスの二階で子供の護衛をしていた。そういえば子供の護衛の業務にも何か意味はあったのだろうか。普通に考えたら子どもを守るのなんてそんなに金になるような気もしない。金持ちの子供であったのならば大金が付く可能性もあるが、護衛を任せるほど金を持っている人間ならば使用人のいる家に住んでいると思われるため、わざわざあの小さなオフィスに連れてくることもしないと思うのだ。それならばここからは想像になるものの、あの子たちはどこからか連れ去られてきた子どもだったのではないかと思うのである。あの子どもたちを親御さんが連れてきているところも見たことはなかったし、迎えに来るところも同様に見たことがなかった。いつの間にかそこにいて、社長がどこかへ連れて行くだけだ。子どもたちの様子を見るに、本人たちは何も知らないようであり無垢な被害者と言ったところだ。本当のことは分からないが、考えれば考えるほど自分の罪が膨らんでいくような気がする。本来自分が償わなければならない罪がどれほどあるのかも分からなかったが、即刻辞めること以上にすべきこともなかった。


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