11.再指名
今や青年がここに来て四か月ほどが経とうとしていた。この町に慣れたのかと言われれば、ある意味では否定できない。「治安が悪い」というのは青年の思っていた悪さではないことも理解している。暴力的な意味ではなく狡猾さの蔓延るこの街は、油断している者の首を掻っ切る用意をいつでもしているようであった。この街での身の振る舞い方は、気を付けていたところで意味もないため、常に狩る側の意識でいることだけだ。誰かと擦れ違おうとするならば、いつでも手を出せるような間合いを意識しておくだけのことである。知らない人が見たら殺気を帯びているようにも見えるのかもしれないが、ここで身を守るには必要なことだ。護衛という立場はそれほど存在感を示すべき仕事ではないが、青年は既にそうしたことに興味もなかった。この街に到着してからの数か月ですっかり消え失せてしまったものである。その代わりに青年に対する依頼者からの指名は減っており、楽な仕事ばかりになるのは青年にとってもメリットであった。はじめの内に青年のことを気に入ってくれた客も、時間が経つにつれて青年に頼むようなことはしなくなっていったのである。青年にとっては好都合であったものの、気に食わなかったのは社長の方である。客から好かれない従業員をみて何も思わない訳もない。給料も固定にしてしまっているため、損失とまではいかないものの効率は悪いのだ。恐らくは、青年をクビにしてしまって、新人をどこかから呼んできた方が効率はいいのだろう。しかし青年をクビにするとなればなにか理由が必要だ。今の状況に関して言うならば、確かに青年の方の態度の問題ではあったものの、クビにできるほどのことではない。青年に何か大きなミスでもさせて解雇する方が合理的であったのだ。損害賠償を請求して辞めさせることができれば、払った給料も返ってくるというものだ。今までその時を待っていたのは青年側であったものの、こうなってくると会社側も青年の過失を待たなければならなくなってしまっていた。
それから青年に久しぶりの指名が入ったのは、少ししてからのことである。青年を指名したのは青年のこの街での初めての仕事の日の客であり、内容もその時と同じであったここ数週間の間に指名されることもなかっただけに違和感こそあったものの行かないわけにはいかない。自分の身を守る一環として、社長には指名の理由を聞くが特にないのだと言われて相手にもされない。そんな中での指名であり、良いことが起こる気もしていなかった。同僚たちも出払っており、仕事柄断ることもできない。冷静に考えれば、敵の罠に飛び込んでいくようなものなのだろう。青年は選択肢の全くない中で、仕事に出向くことに了承すると具体的な時間を確認した。
青年にとって幸いだったのは、この仕事が翌日であった点である。この日は元々他の同僚が行くことになっていたようであり、予定を変更することもなかったようだ。そのためこの日の青年はこの依頼主のことを探るべくオフィス内の資料を漁ると、少ないながら役に立つ情報を探した。
すぐに何か見つかるような都合のいい話もなく、具体的な収穫など殆どない。かなりの時間を要した上での唯一の発見は、以前この会社を離れた背の高い同僚の最後の仕事がその依頼主からの指名であったことであった。嫌な予感もしないわけがない。その後あの同僚がどうなったのかも知らない。結局最後まで会うことが叶わなかったのだ。今彼が生きているのかどうかも知らないのだ。村の方に帰されていたのならばそれで問題はなかったものの、その保証はどこにもなかった。青年の翌日の仕事を考えると、ここに居られる時間というのもそう長くないのかもしれない。自分が追い詰められていることは言うまでもなかったが、上手くいけばそれを利用できるかもしれないのだ。青年はその情報だけで満足すると、家に帰って荷物をまとめた。明日何かが起こるとまだ決まったわけではない。様子見だけかもしれないため、準備段階で終わる可能性だってあるのだ。書類を見るに背の高い同僚は何度も指名されていた。そのため自分の終わりまでの一歩目に過ぎないのかもしれなかった。
それから一通りの片づけが終わるとまだ早い時間ではあったものの、寝てしまおうとベッドに移動する。しかしその日はなかなか簡単に寝付けるような余裕もなかった。これまでだって自分の心が追い込まれることがなかった訳ではない。それでも青年の精神力を思えば、寝られなくなるほどになることはなかった。護衛の仕事柄ことを考えると比較的緊張が少ないことにも頷ける。大抵の場合は、自分は守る側の立場であって直接狙われる立場にないのである。今回ばかりはそういった今までの経験が通用しないのだ。分かっていながらも敵陣に乗り込まないといけないと考えると落ち着けるはずもなかった。自分の足を負傷させられた時のことに気づいたことだが、あの店にいる客たちは殆どお互いに繋がりがあるはずだ。あの店が丸ごと彼らの島だと思って言っても間違いはないのである。「依頼主」とは名ばかりで、あの中には他にも別の護衛だっている可能性がある。あそこが何かの組織の拠点だと言っても差支えもないはずだ。これも青年が昼間に書類を確認している時に気づいたことだが、この依頼主は殆ど毎日のようにあの店にいる。交代で依頼を頼まれているものの、依頼主自体はそこから動いていないのだ。あそこにいるだけで何かの収入を得られていると思うと、その実態が何なのかは分からないが良くないことをしているようにも思うのである。裏で大きな力が働いていてもおかしくはない。自分が何に巻き込まれているのかは分からなかったが、その場しのぎになってしまったとしても身の安全を確保するのに全力を尽くさなければならないだろう。わざわざ指名されて何も起きないはずもない。
兎に角まずは明日を生き延びないとその先の未来もないのである。焦れば焦るほどに睡魔は遠ざかっていくように感じる。ここで眠れなければ明日の自分の動きに支障が出るだろう。どうしてもそれは避けなければならない。解決策を考えて部屋の中を見渡すと、見つけたのはいつか買った酒の瓶であった。すべてが終わった後に飲もうと思って買ったものである。青年は自分が酒を飲むと眠くなってしまうことを知っていたために、それに頼ることにすると栓を開けて口に運んだ。すぐに意識が朦朧としてくるのは予定通りのことである。どうせ明日の業務は昼前からであり、余程のことがない限りは支障もでないはずだ。今の時間帯を考えてもこのまま飲んで眠ってしまっても寝過ごすことはまず有り得ない。思考がまともなうちに飲んでも大丈夫だと判断すると、青年は更に多量のアルコールを摂取した。
それから次に思考を働かせる頃には朝になっていて、憂鬱な夜はいつの間にかいなくなっていた。計算違いがあるとするならば、自分の体の状態である。脈拍こそいつも通りであったものの、酷い頭痛と吐き気に襲われていたのだ。いくら普段から酒を飲む習慣がないにしろ、ここまで弱いとは思わなかった。自分が体を鍛える立場にあることを考えるとあまり飲まないようにはしていたものの全く飲まなかった訳でもない。
時々バーでビールくらいは口にすることがあり、その程度では悪影響が出たことは一度もないのである。しかし今こうして体調不良を起こしていることを考えると自分の判断が甘かったのだと思い知らされる。今から対策を講じようにもどうしようもない。思いつくことは水を飲むくらいのことであり、それで万全な状態になるはずもなかった。思えば自分がこの街に来る数日前にもこんな感覚になった覚えがある。村の仲間たちが送別会のようなものを開いてくれたのだ。彼らのことを思い出すと何としてもここから帰らなければなるまい。今の状態はベストコンディションからは程遠かったものの、昨晩あのまま眠れずにいたのならば状況はそう変わっていなかっただろう。
青年は頭を切り上げると、どうにか今日を乗り切ることに集中する。自分のカバンのところまで移動すると、いつもとは違う服装に着替えた。やや形式ばった服装であり、パーティー会場に向かう際にも着ていたものである。傍から見れば不自然に思われるかもしれないが自分を奮い立たせるのにはそれが最適だったのだ。服に皺や埃がないかを確認すると、そこからが今日の仕事である。青年は家の扉を開けると、いつものようにオフィスまでの道を進んだ。
一歩ごとの感覚がいつもよりも重いのは、憂鬱さが足首を抑えているからである。このまま逃げ出してしまった方が自分にとっては良いようにも思えるのだ。しかしより良い結果を生むには行くべきなのだろう。青年は重い足取りのままオフィスに到着すると、今日の重い扉を開けて中へと入って行った。
自分の席に向かうと、オフィスの奥には社長がいる。気づかないふりをしながら進むとどうにも視線を感じる気がするのだ。青年の方が意識し過ぎているだけなのかもしれなかったためにできるだけいつも通り振舞うように心掛けるものの、この日はそうも上手くはいかない。考えれば考えるほどその「いつも通り」が分からなくもなってしまうのだ。ボロを出さないためには必要最低限のことだけをするほかない。青年は業務の準備を終えると少し早い時間ではあったものの、外に出て例のカフェの方向へと歩き出した。
そのカフェに行くのは少し久しぶりなようにも思える。ここ数週間は自分への依頼もなかったために、この場所に来ること自体時間が空いてしまっていた。自分の足を刺された場所であり本能的に近づきたいとは思っていなかったために、あえて来ないようにしていたのだ。外から店内の様子を確認しても、内装や雰囲気は以前とも変わらず、シンプルな店内には相変わらず面白みもなかった。




