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1.静かなる旅の始まり

 小さな田舎の村にも善悪は存在する。この村で育った一人の青年における悪は誰かを不幸にすることに他ならない。どんなに自分勝手に生きていたとしてもそれで誰かが被害を受けるようなことでもなければそこに誰も止める義理はなない。国全体に法律が敷かれていたとしても、この村でそれに順ずるかと言われればそういったこともない。ただ人情の中で生きていればいいと思っていたのである。それほど広くもなく、誰もが顔見知りのようなこの村の中ではお互いがお互いを思い合えなければ追い出されることになる。

 農作物の豊かなこの地域では食料には困ることはなく、村人たちは不自由なく平和に暮らしていた。青年の仕事は農業ではない。農作物を盗みに来る他所の輩からこの村を守る守衛のような立場にいて、時折やってくる者たちを一人で追い払うくらいは造作もないほどに卓越した棒の技術を持ち合わせていた。しかしそれも今日までのことであり、まだ若い青年は外の世界を見てみたいと思っていたのである。この村の中に居ればそれほどの危険もなければ、自由も保証されている。青年が守っていた部分はあったものの、彼以外にも同じように村を守る者がいる。そのため青年としては数年の間外に出て、知見を広めたいと思っていたのである。

 成人を迎えた年の春、青年は朝の陽ざしを浴びて目を覚ますと、鳥のさえずりの中で身支度をした。世界は暖かさを帯びていく季節ではあったものの朝の寒さはまだまだ残っている。日が昇ってからまだ数時間も経っていないこの時間帯は、空気も澄んでいて旅立ちの日には申し分ない環境であった。

 強いて言うならば、この日の青年の眠りが浅かったことが若干の不安を覚える。自分で決めたことではあったものの、いざその日を迎えるとなると身震いもしたくなるものだ。これから向かう先はこの村から遠く離れた都会の大きな街であり、自分の実力を計るための試練のようなものであった。

 今から丁度半年ほど前、大きな村から守衛の仕事を引き受けてほしいとの募集を受けた。時折聞く話ではあったものの、わざわざ時間と手間をかけてこの村から出て行く者もいない。ただ好奇心に溢れたこの青年に関しては、経験として行ってみてはいいのではないかと思ったのである。

 青年は極々一般的な青年であった。背格好も決して小さい方ではなかったものの、特別大きくはない。それでも体は十分に鍛え上げられており、それは本人の努力の賜物だった。村の守衛としては村人たちから信頼されており、その腕を疑う者も誰もいない。今までだって仕事で大きなミスを犯したことは一度もなかったし、そのことが彼の自信に結びついていた。未熟だった点があるとするならば、本人も自覚している通り人生経験の少なさだったのである。そのため街に出て実績を積んだのであれば、それが自分やこの村のためにもなると思ったのだ。

 この村もかなり閉鎖的であり外の町との交流もないこともないのだが、最低限のやり取りだけをするようになってしまった今、好んで外に出るような人も少なかった。それから誰も大きな街に行きたがらなかった理由の一つに言語の影響があった。この村と大きな街とでは使用されている言語が異なっている。この村の言語はこの村と周りの村だけで使われる小規模なものだ。わざわざ学ばなくてもいいのは、この村にさえ居れば生活には困らないからである。

 青年だって本来そんなことはしなくてもいいのだが、そこが彼の好奇心であった。今後、他の村や町とのやりとりで役に立つかもしれないと思うと自分の価値を高めるべく学ぶことにしたのである。それで朝から外国語の本を眺めては、現地に到着した時のことをイメージしていた。これから向かう先では自分の村の言葉が通じないと思っておいた方がいい。長期的にそこに滞在するために、自分力だけで生きて行かなければならないのだ。雇用主自体はこの村の言葉も通じる。通じるが故にこの町にも仕事の依頼が出ているのだろう。もう何度も読み返した本を閉じると自分の部屋から外に出た。

 青年は両親とともに一軒の家で生活していた。今の生活も特別なことはないものの、満足はできるものだ。特別裕福という訳ではなかったものの、不足しているものもなく、贅沢をしなければ不自由もなかった。しかしこの生活だってどのくらい続けられるのかは分からない。幸い昨今は農作物には恵まれているものの、いつ不作に陥るかも分からない。そうなってからでは遅いのだ。生活を安定させるには他の技能の一つや二つ覚えておいても良いのだろう。そう思うと青年はこの穏やかな家庭から出て外に出ることにしたのである。

 この日青年は、出発の日だからと言ってなにか特別なことをしたわけでもない。いつもの通りに眠い目をこすり、いつものように朝食を食べた。

 家族たちも彼に対して特別な施しをした訳でもない。これから行った先で何があるのかも分からないと考えると、「いつも通り」ほど尊いものもない筈だったのである。距離にしても歩いて行けるものではなく、時間にしても馬車で丸一日はかかる場所だ。ここから遥か南に進み続けると現れるその街の食べ物が、この村の食べ物と同じという保もない。

簡単には戻ってこられない場所なだけに、持っている情報も少なかったのである。そのため青年の家族は、この村で取れる穀物をテーブルに並べると慎ましい朝食をとった。

 それから青年は荷造りのために部屋に戻ると、大きなカバンに自分の衣服や簡単な護身用の武具を仕舞い込む。あまり荷物が多すぎると動きにくくもなるために最低限の物だけをカバンに入れると荷造りもそこで完了する。足りないものでもあれば現地で買い足してもいいのだ。自分の物を持って行くよりも必要だったのは土産物だろう。長期的に世話になることを考えれば失礼な態度をとるべきではない。そうしたマナーを心得てはいなかったものの、旅先の人々の印象をいかに良くするかは考えなければならないことではあった。

 先方からの手紙を見るに、歓迎されているよう心配することもないのだろうが、最低限のことは弁えておかなければなるまい。あちらの街で孤立でもしてしまえば、言語の差から不便を強いられることにもなるはずだ。青年にとっては本当にゼロからのスタートであったために、考えるべきことは信じられないほどに多かった。しかしそうしたことを覚えていくことこそがわざわざ街へ出て行く目的でもあったためにできるだけ前向きに捉えようと努めた。

 荷造りの確認までを終えると太陽も高いところへと向かって行っている所であった。自分の部屋の窓からの景色も暫くの間は見納めだ。傍から見ればなんてことない村のなんてことない部屋のなんてことない窓から見える景色であって、自分が生まれ育った場所だと考えるとそれだけで特別な場所のように感じる。村を出ようと思うまでは感慨深くも思わなかったものの、いざこうしてみるとそこが尊い場所に見えてしまうのだ。

 家の前に広がる畑は、今は緑の草が生い茂っていて、とてもじゃないが収穫の時期ではない。しかし街に出ればこうした自然と触れ合う時間も減っていくのだろう。

 窓を開けて空気を吸うと肺はいつもの調子を取り戻す。それから少しの間外を眺めていると、その様子に気が付いたのは青年の父親であった。

 出発の際、青年を村の外れまでは送って行こうと決めていたために、朝からそのタイミングをうかがっていたのである。もしかすると青年本人よりも気を張っていたのかもしれない。青年の音に敏感になっているのが分かるほどに、父親の動きは違っていて緊張感も漂っていた。その一方で青年はというと緊張自体はそうあるものでもなく、不安こそなくはなかったものの、そこまでストレスを抱えている訳でもなかった。

 父親は青年を呼ぶと、刻限が迫ってきていることを話す。確かにもうそろそろ出なければならない時間だ。青年は父に対して少し待つように言うと、自分の部屋から大きなカバンを運んだ。結局かなりの重量になってしまった荷物の中は、家族や友人たちにもらった餞別の品で溢れ、置いていく訳にも行かなかったのである。恩は感じているものの、これでは自分がもう帰ってこないように見えてしまうかもしれない。青年としてはそんなつもりは一切なかったが、両親の言葉を聞くと今からここから離れてしまうことが実感に変わって寂しい気持ちも顔を出した。

 今更そんなことを思ったところで予定を変える気もない。できるだけ何でもないような顔を作ると、できるだけ簡単にお礼の言葉を述べて外へ出る。自分の人生の中で初めて一人で外に出るのだ。希望に満ち溢れているものだと考えるべきであり、悲観することではないのである。青年は母に別れを告げると、父と共に村の外れの馬小屋の方へと移動した。

 一日に二度、朝と昼にしか出ない馬車に乗り遅れてしまえば、翌日のものに乗るしかなくなる。大きな街の方で待ってもらっている先方に迷惑をかける訳にもいかないため、まずは馬小屋までの道を急いだ。目的地までは歩いて三十分以上かかる。家を出た時刻は馬車の出発予定時間より少しだけ早く着くようなタイミングではあったものの時間に余裕がある訳でもない。特に村景色を目に焼き付けながら歩けばあっという間に時間も過ぎてしまうのである。ありきたりではあるが、小さな村の懐かしい景色に他ならない。父親とそこを通ると言うのももう何年ぶりだろうか。感傷に浸っていると時間が経つのもあっという間になってしまう。結局青年が馬のいる所にたどり着いたのは出発の本当に直前であり、今まさに御者が馬を走らせようかと言うところであった。

 大きな声を出して呼び止めると御者は青年たちに気が付いて馬を止める。彼も顔なじみであり、ここで冷たい態度をとる訳でもない。田舎の町では呼び止められるの自体も日常茶飯事なのだろう。この男は他所の村とこことを行き来しており、この村出身ではなかったもののこの村の住人たちからも信頼されていた。

 青年が重い荷物を持って近寄って来るのを見ると、荷物しか載せていない馬車の扉を開けて到着を待つ。青年の方もできるだけ急ぎ足でそちらへ向かうと、父にもう一度礼を言ってから乗り込んだ。

 馬車が動き出すといよいよここから青年の旅が始まる。小さくなっている父親の姿を見ながらこの狭い空間で時間が過ぎるのを待つのだ。見慣れた景色が少なくなっていく様は不安を駆り立てるものではあったものの、こんなところで弱気になっている場合でもない。

 青年はこれからの自分のことを考える。移動にかかる時間というのは一日と半分ほどであり、娯楽の無いこの空間では果てしないものである。馬車での移動でもそのくらいの時間がかかるのだから、人が歩いて行けるような距離ではない。馬自体の歩みもそれほど早い訳ではなかったものの、人間が維持できるスピードではないことは確かだ。それに馬車代だって決して安いものではない。近くの村や町を行き交うだけの短い距離を移動するだけならば気にするほどでもなかっただろうが、大きな街までの距離を考えると覚悟のいる金額である。しかも一度他の町を経由しなければならないことを考えると、関所で余分に金がかかったとしても不思議ではない。時間にしても金銭面にしても手間にしても、そう簡単に帰ってこられないことは承知の上であった。

 まずはこの馬車に丸一日、丁度明日の昼頃までは乗って移動する。自分の持ってきた言語の本を読み、手帳を開き、それから飽きたら景色を見るか寝るかを繰り返す。村の近くの景色と他所の町の近くの景色は全く違っていて、少しの退屈は潰せないこともない。

空を見れば独特な形で流れて行く雲が見え、想像力を働かせている間の時間の経過は少しだけ加速する。手帳に自分の心情を書き連ねれば、吟遊詩人のような気分にも浸ることができて、あたかも自分の感性が他人よりも繊細であるのだと思い込むこともできた。しかしそれらを楽しめるのもせいぜい数時間が限界であり、旅がその先も長いのだと思い出すと焼け石に水のように感じてしまった。夜になったのならば寝てしまえばいいものの、いつまでも寝続けることができる訳でもない。仮に自分の部屋のベッドの上であったのならばいつまでも眠っていたいと思うこともあるのだろうが、今はそんなにリラックスできる場でもない。簡単な作りの馬車が舗装されていない道を進めば当然揺れも大きくなり、それが睡眠を妨げる。それでもある程度は覚悟してきたためか、安眠こそ阻害されたものの全く眠れなかった訳でもなかった。結局その日の夜は体感として四時間から五時間ほどの睡眠を確保し、それが限界であった。

 翌日馬車を降りると次の馬車の出発を待つ。幸いだったのは関所で金を払わなくて良かった点である。この町は覚悟していたほど厳しくもなく、寧ろ余所者にも親切で好感の持てる町であった。景色も青年の村とそう変わらない。馬小屋のある付近が同じように見えただけだったのかもしれないが、印象は良かった。一つだけ大きな違いがあるとするならば、言語が元の町とは違っていた。しかしそのあたりは村から連れてきてくれた御者が話を付けてくれたようで困ったこともない。青年は落ち着くと次の馬車の時間まで宿の部屋を借りて今度こその眠りについた。

 それから次に目が覚めてから数時間のうちに馬車に乗り込む。ここからは相手側の言語を使わなければならなかったものの、大きな街からそう離れていないこの町では、大きな街と同じ言語が使われていた。青年は今まで学んだことを思い出すと簡単な挨拶をし、お金を払った。コミュニケーションは案外とれるようであり、それが青年の自信に繋がったのは言うまでもないことである。それから予定通りの馬車に揺られていると少しだけ旅にも慣れてきたような気になる。外の世界に殆ど触れてこなかった青年ではあったものの、かなりの距離を来たのであり、それだけで成長を感じた。世間的に見れば些細なことであったのかもしれないが、本人としては今日一日で得るものとして十分以上の学びを得たつもりになっていた。


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