「お前との結婚は罰ゲームだ」と離婚された私、隣国の皇帝陛下に「君との出会いが最高の報酬だ」と求婚される
「書類にサインをしろ、リリアーナ」
冷え切った声とともに、羊皮紙がテーブルに叩きつけられた。離婚届だった。
目の前に立つ夫――アレクシス・ヴァンダービルト公爵子息は、その整った顔を嫌悪で歪めていた。結婚して一年、彼が私に向ける表情は常にそれだった。
「お前との結婚生活は、苦痛以外の何物でもなかった」
「……アレクシス様」
リリアーナは震える指先を隠すように握りしめた。この結婚が政略によるもので、彼に愛されていないことは承知していた。それでも、いつかは打ち解けられるかもしれないと、精一杯努力してきたつもりだった。けれど、その全ては無駄だったらしい。
「陛下も酷な方だ。あの方の命令で仕方なく、お前のような地味で、何の魅力もない女と結婚させられたが、もう限界だ」
アレクシスは、部屋の隅で勝ち誇ったように微笑む、艶やかな伯爵令嬢の肩を引き寄せた。彼女こそが、アレクシスの真実の愛なのだという。
「はっきり言おう。この結婚は、私にとって『罰ゲーム』だったのだよ。陛下の機嫌を取るための、最悪のな。だが、もう終わらせる」
罰ゲーム。その言葉が、リリアーナの心を深く抉った。彼にとって、自分との時間はそれほどまでに無価値だったのか。
「……承知いたしました」
これ以上、惨めな思いをする必要はない。リリアーナは震えを押し殺し、静かにペンを取った。アレクシスは鼻を鳴らし、サインされた書類を奪い取るようにして部屋を出て行った。
一人残された部屋で、リリアーナは窓の外を見つめた。
(これで、良かったのかもしれない)
自由になったのだ。誰にも顧みられないこの場所で朽ちていくよりは、ずっといい。彼女の脳裏に、忘れられない記憶が蘇る。
――あれは、三年前のことだ。
まだ結婚する前、薬草を摘みに人里離れた森に入ったリリアーナは、崖下で血を流して倒れている一人の青年を見つけた。魔物に襲われたらしく、深い傷を負い、毒に侵されていた。
リリアーナは迷わず駆け寄り、持っていた知識と薬草を駆使して彼を介抱した。身分のある人物のようだったが、彼は多くを語らなかった。意識を取り戻した彼は、驚くほど美しい琥珀色の瞳でリリアーナを見つめ、「君のおかげで助かった。この恩は決して忘れない」と告げた。
数日間、森の小屋で彼を看病した。彼は「レオ」と名乗り、リリアーナの薬草の知識や、自然を愛する心に深く感じ入っているようだった。別れ際、彼はリリアーナの手に、精巧な細工が施された短剣を握らせた。
「これは俺の命そのものだ。必ず、君を迎えに行く。それまで持っていてくれ」
だが、彼は二度と現れなかった。そしてリリアーナは、家の命令でアレクシスと結婚した。あれは、束の間の夢だったのだ。
◇◇◇
離婚が成立して一ヶ月後。リリアーナは、気の進まないまま王城の夜会に参加していた。隣国である強大なゼノア帝国から、若き皇帝が来訪したことを祝う歓迎の宴だった。
アレクシスとの離婚は社交界の格好の話題となっており、好奇と嘲笑の視線が突き刺さる。アレクシスは例の伯爵令嬢を正式な婚約者としてエスコートし、勝ち誇ったように振る舞っていた。
(早く帰りたい……)
壁際で息を潜めていると、突然、会場が静まり返った。
「ゼノア帝国皇帝、レオンハルト陛下のお成り!」
入り口に、一人の男性が立っていた。漆黒の髪に、鋭い琥珀色の瞳。豪華な皇帝の礼装に身を包んだその姿は、周囲を圧倒するほどの覇気を放っていた。冷徹にして有能、一代で帝国を大陸最強の座に押し上げた覇王。
彼が動くだけで、人波が割れる。国王夫妻への挨拶を終えたレオンハルトは、ゆっくりと会場を見渡した。まるで、何かを探しているかのように。
そして――彼の視線が、一点で止まった。壁際に立つリリアーナを、真っ直ぐに射抜いたのだ。
会場がどよめく中、皇帝レオンハルトは迷いのない足取りでリリアーナへと向かってくる。誰もが息を呑んだ。なぜ、皇帝が、あの離婚されたばかりの地味な子爵令嬢のもとへ?
「待たせた」
リリアーナの前に立った彼は、周囲に聞こえぬよう、低く甘い声で囁いた。リリアーナは目を見開いた。琥珀色の瞳、この声――。
「レオ……?」
レオンハルトは満足そうに微笑むと、リリアーナの手を取り、恭しくその場に跪いた。会場が悲鳴のようなざわめきに包まれる。大国の皇帝が、たかが子爵令嬢に跪いているのだ。
「リリアーナ。三年前、名も告げず、魔物の毒に侵され死にかけていた私の命を救ってくれた、聡明で勇敢な女性。君を探していた」
リリアーナは言葉を失った。あの時の青年が、皇帝だったなんて。
「迎えに来るのが遅くなったことを許してほしい。帝位継承の争いを鎮め、国を盤石にし、君を皇后として迎える準備に手間取ってしまった」
レオンハルトはリリアーナの手の甲に口づけを落とし、熱を帯びた瞳で見上げる。
「あの森で過ごした日々、君の優しさと知性に触れ、私の心は奪われた。リリアーナ、私の妻になってほしい。君との出会いこそ、私の人生における最高の報酬だ」
静寂が会場を支配した。それは、あまりにも劇的で、情熱的な求婚だった。
「お待ちください、陛下!」
血相を変えて割り込んできたのはアレクシスだった。
「その女は、私が一ヶ月前に離婚した女です! 地味で、何の取り柄もない、私にとっては罰ゲームのような存在でした! 陛下の妃などと――」
その瞬間、レオンハルトがゆっくりと立ち上がった。彼の瞳から温かさが消え、絶対零度の冷気が放たれる。
「罰ゲーム、だと?」
皇帝の低い声に、アレクシスは蛇に睨まれた蛙のように硬直した。
「貴殿が彼女の価値を理解できなかった愚か者か。彼女の持つ深い知識と献身的な心。それこそが、人の上に立つ者に最も必要な資質だ。それを見抜けず、ダイヤモンドを自ら手放すとは」
レオンハルトはリリアーナを庇うように抱き寄せ、アレクシスを睨みつけた。
「その不明を恥じるがいい。ヴァンダービルト公爵家との交易は、全て見直させてもらう」
「そ、そんな……!」
帝国の後ろ盾を失うことは、公爵家の没落を意味する。アレクシスは自分が手放したものの大きさをようやく理解し、その場に膝から崩れ落ちた。彼の隣にいた婚約者も、冷たい視線を彼に投げかけている。
レオンハルトは再びリリアーナに向き直り、慈しむように微笑んだ。
「リリアーナ、返事を聞かせてくれるか」
リリアーナの目から、大粒の涙がこぼれ落ちる。報われなかった日々が、彼の言葉によってすべて塗り替えられていく。
「……はい、喜んで、レオ様」
彼女が答えた瞬間、レオンハルトは歓喜に顔を輝かせ、リリアーナを強く抱きしめた。割れるような拍手が巻き起こる。
罰ゲームは終わり、最高の報酬が今、彼女の手の中にあった。