毎日お仕事頑張るぞ
マリーの家の前に、公爵家の紋章のついた大きな馬車が迎えに来たのは、午後に差し掛かる程近い時間だった。
今日はとてもいい天気で気温も暖かく、引っ越しにしても、初出勤としても最高の日取りだった。
馬車からレオナルドが降りてきて、マリーの手を嬉しそうに取る。
「今日からよろしく頼むよ」
レオナルドの言葉に、マリーは曖昧に微笑んだ。ただ世話になるだけならとにかく、働きに行くので、どうしても緊張する。
レオナルドは兄に睨みつけられながら、それでもマリーの手を離さなかった。
ほんの僅かばかりの荷物を御者が積み込むのを見守ってから、マリーは家族に向き直った。
「それでは、行ってまいります」
母は泣きそうな顔をして、マリーの手を握ってくれた。
「お嫁に行くわけでもないのに、ダメね。落ち着いたら、どんな様子なのか、教えてちょうだい」
「はい」
父と兄は複雑そうだ。散々、行くのを渋っていたので、当然の反応だろう。
「マリー、少しでもおかしなことをされたらそいつを殴って帰ってきなさい」
兄はそう言ったが、父は口重で、何も言うことはなかった。
レオナルドの手を借りてマリーが乗り込むと、馬車はすぐさま出発した。マリーの向かいには嬉しそうな笑みを浮かべたレオナルドが座っている。
「そのうち、君に殴られる日が来るのかもね」
レオナルドの軽口を流して、マリーは昨日の夜に気づいたことを話した。
「そう言えば、わたし、あなたに紹介されたことがないんです。誰も紹介してくれなかったものですから。もしかしたらご存知ないかもしれないんですが、わたしは、マリー・レクザンスカと言います。父はキンドレド男爵と言って、宮廷で立法に関する職に就いています。兄のロナルドも同様に、宮廷で経理に関する職で糊口をしのいでおります」
レオナルドは、マリーの言葉がよほどツボに入ったのか、初めは押し殺した笑い声でなんとか抑えていたが、マリーが話し終わる頃には腹を押さえて引きつけじみた笑い声を上げていた。苦しそうで、実際涙を浮かべている。
「いや、なんというか、予想の上をいくね、きみは」
浮かんだ涙を指先で拭ってから、レオナルドはにっこりと微笑んだ。
「ご紹介に預かりまして、僕はレオナルド・トゥールズベリーだ。祖父がハインライン公爵、父がダウランド伯爵、僕がキイス子爵の三代でタウンハウスに住んでいる。とはいえ、祖父はもう領地に骨を埋めると言って聞かなくてね、滅多にこちらに来ることは無くなってしまった」
「そうなんですか」
「君をいつか祖父母に紹介できる日が来ることを願ってるよ。でもその前にまずは、父と母に」
公爵家のタウンハウスは、マリーの家よりももっと宮殿に近い場所にある。
ほとんど、宮殿のお膝元と言っていい位置だ。お膝元を通り越して、お隣さんと称してもいい位置ではあるが、それでも建物同士の距離は馬車が必要な程度はある。
そんな、公爵家のタウンハウスにたどり着く頃には、マリーの胃はきりきりと疼痛を訴え始めていた。なにせ、初めての勤労だ。しかも、因縁のある公爵家。
馬車を玄関口に寄せると、一人の従僕が待っていた。レオナルドは先に馬車を降りて、マリーが降りるのを手伝ってくれた。
「若君、旦那さまと奥さまがお待ちです」
「わかった」
従僕はそれだけ言うと、マリーの荷物を取り出して、何も言わずに屋敷の中へ入っていった。
レオナルドが腕を差し出すので、これで正しいかどうか自信の持てないまま、腕に手を添える。
「父と母は心配性でね、僕が新しい部下を雇うと聞いて、顔だけでもみたいと言うんだ」
レオナルドは迷いのない足取りで屋敷の奥へと歩いていく。マリーは困惑しながら、着いていくしかない。
なにせ雇用主の両親だ。心象をよくしておくに越したことはない。僅かな緊張に、足取りが重たくなるが、レオナルドはそんなマリーの様子に頓着などしてはくれなかった。
たどり着いた飴色の美しい扉を押し開けると、そこは日当たりのいい広いサンテラスだった。壁一面に、大きなガラスが嵌め込まれており、よく日が差し込んでいる。ガラスのそばには豪華なソファセットが設えられており、庭の景色を見ながらゆっくりと過ごせるようになっている。
背筋の伸びた壮年の男性と、その配偶者と思しき婦人がソファに並んで座っていた。
「父上、母上」
レオナルドの呼びかけに、二人は笑みを浮かべて立ち上がった。
マリーは緊張しながら、レオナルドと二人のそばまで歩いて行った。
こちらから声をかけるわけにはいかず、マリーは黙って深く礼をした。
「こんにちは、初めましてお嬢さん」
「お目にかかれて光栄です、伯爵閣下。レクザンスカの家より罷り越しました、マリーと申します」
「これはご丁寧に、ご存知の通り、わたしはダウランド伯爵を名乗っている。アイザック・トゥールズベリーだ」
「初めまして、マリーさん。私は妻のイリアスです。仲良くしてくれると嬉しいわ」
「ありがとうございます、奥さま。よろしくお願いいたします」
頭を深く下げて、マリーは伯爵夫妻に挨拶をした。曰く付きの男爵家からやってきた娘相手に、随分と丁寧だ。嫌味の一つでも言われるかと思っていたので、マリーは肩透かしを喰らった気分だった。
ゆっくりと顔を上げ、イリアス夫人と目を合わせる。初めて顔を見たが、穏やかな顔に、ほんの僅かな憐憫の色が浮かんでいた。
「お仕事が忙しくないときに、お相手してくれるかしら。うちには女の子がいなくて」
「もったいないお言葉です」
マリーは再び礼をして微笑む。夫人の憐憫の色は、きっと働かなければならない身の上を同情してのことだろう。
顔合わせはおわったとばかり、レオナルドはマリーを連れて、さっさと部屋を辞してしまった。
「さて、それじゃあ君の部屋を案内しよう」
レオナルドは、それこそ鼻歌でも歌いそうなくらい上機嫌にマリーの手を引いていく。
屋敷の客間のあるエリアの角部屋が、マリーのために用意された部屋だった。その部屋は東向きで明るく、よく手入れされた庭が見える。
室内は、彩度の低い落ち着いた色合いでまとめられていた。広い部屋の中に大きな寝台と、繊細な彫り込みのされた豪奢な文机、部屋の中央には、過ごしやすいように一人がけのソファが二つと、コーヒーテーブルが置かれている。
実家の自分の部屋よりも豪華な設えだ。文机はオーク材で、木目も美しい飴色が、職人の丁寧な仕事を感じさせる。部屋の様子だけみたら、仕えにきた人間の部屋だとは思わないだろう。
「こんないい部屋を用意してくださって……。こころづかいに感謝いたします」
半ばあっけに取られて、マリーはほとんど自動的に礼を述べた。果たして本当にこれは部下の部屋で正しいのだろうか。待遇が良すぎないか。あまり良い待遇をされると、嫌な予感がしてくる。レオナルドから、愛人にはしないと言質は取ったが、なあなあでなし崩しにされたりしないだろうか。
そんな危惧が一瞬頭の片隅を過ぎるが、押し殺してマリーは微笑んだ。