そんなに怒らなくても
母の部屋で、勧められるままに大人しく苦手な刺繍をしながら待っていると、大声で怒鳴りあう声が聞こえてきた。
何事かと刺繍板から顔を上げると怒鳴り声はついに部屋のすぐ外までやってきた。
怒声の片方は、おそらく兄のものだろう。もう一人がわからない。聞いたような気がするが、心当たりがなかった。「馬鹿野郎、母の部屋に入るんじゃない!」という聞いたことのないくらい口汚い兄の声と共に、
ばたんと大きな音を立てて扉が開く。その向こうには、朝に見た姿に、正式な訪問用のトップハットを被った兄と、なぜか訪問着姿のレオナルドがいた。聞いたことのない怒声はレオナルドのものだったようだ。マリーは彼がこんなに声を荒げているのを初めて聞いたので気付かなかったのだ。
レオナルドは、マリーと目が合うと、目元を緩めて近寄ってきたが、思い切り兄に肩を掴まれた。
「妹に近寄るな」
「マリーには嫌がられていない」
「妹の名前を気安く呼ぶな、そっちを見るんじゃあない!」
「一体どうしたの、二人とも」
呆れた母が立ち上がると、レオナルドは人好きのする微笑みを浮かべてお辞儀をした。
「こんにちは、夫人。お会いできて嬉しいです」
「母に近寄るな、このろくでなしが!」
兄の言葉を無視して、レオナルドは母の手を取り、手の甲に口付けを落とす仕草をした。
「あなたの息子を説得してくださいませんか、美しいマダム」
「まぁ、お上手ね。でも息子は頑固だから、わたしの言うことなんて聞きやしないの」
母は微笑み返して、そっと、つられて立ち上がったマリーの肩を押した。兄の方に押し出されたマリーは、腕を引っ掴まれ、乱暴に兄の背後に隠されてしまった。
「マリー、いい子だから自分の部屋に入っていなさい。内側からきちんと鍵をかけることを忘れないように」
「でも、お兄さま」
「でももなにもなしだ。終わったら呼びに行く」
ぐい、と部屋から押し出され、目の前で扉が閉められる。今日はずっと、目の前で扉が閉められてばかりだ。事態の中心のはずなのに、外野に弾き飛ばされて、閉め出されてしまう。
マリーは気落ちして自室に入った。久しぶりに入った部屋は、きちんと管理されていて、空気が澱んでいることはなく、過ごしやすかった。
鍵をかけることはしなかったが、シンディに頼んで、お茶を待ってきてもらい、こんなことになるなら勉強道具を持ってくればよかったと後悔していた。
シンディは主家の人間がどうして客人に怒鳴り散らして、追い返そうとしているのかわからず、ひたすら困惑していた。
「お客様がいらしたのに、ロナルドさまはどうしてあんなにお怒りなのでしょう。ご友人なのでしょうか」
マリーはどう言えばいいかわからず、「さぁ」と言葉を濁した。
三十分ほどしてから叩扉の音がして、「マリー、起きているかしら。ロンたちのお話し合いが終わったようだから、あなたも少しお話ししましょう」と母が呼びにきた。
慌ててシンディに後片付けを頼み、母と共にサロンに向かう。
こぢんまりと、しかしセンスよくまとめられたサロンの椅子に、向かい合うように不機嫌な兄と笑みを浮かべたレオナルドがいた。
母に連れられて入室すると、レオナルドはマリーを見ながら大きく手を広げて、「合意が取られた」と嬉しそうに宣言した。
「それは、つまりわたしの就職先が決まったと言うことでいいの?」
「その通り!」
「そんな訳があるか」
唸るような兄の言葉には、怨嗟の色さえ見えた。
「今すぐお前を殴りつけてやりたい」
「ありがとうございます、そんなに感謝されるとは思いませんでしたよ。ほら、行こうマリー。準備をしないと」
「舐めてるのか、うちの父の判断が決まってからだ」
「そうだった、あなたは彼女の兄でしたね。あんまり小うるさいから父親かと思いましたよ」
今度こそ兄は大きな唸り声をあげて、立ち上がった。今にも掴みかかりそうな気配を感じて、慌ててマリーが兄に縋り付く。
「お兄さま、合意ってなんのこと?」
「マリー……お前がとても、非常に優秀だと言うことだ」
意味がわからず、マリーはぱちりと瞬きした。
「お兄さまと比べたらごく普通よ」
マリーの兄のロナルドは、それこそ栴檀は双葉より芳しいの言葉に相応しい寧馨児で、幼い頃から才能に溢れた人だ。数学的な物事に強く、歳の頃七つを数える頃には学園で教わるような公式は全て頭に入っていた。
兄の才能の前には、マリーなど足元にも及ばない。学園をたったの一年で卒業した後に大学に入り、師事した教授に、卒業などせずに大学に残ってくれ、自分の元にいて、共に研究の道を進んでくれと懇願された事はもはや伝説にもなっている。
「お前が優秀すぎて、周りからやっかみを買っていたと、なぜ教えてくれなかったんだ」
「やっかみ?いじめられていたこと?」
マリーが不思議に思って聞き返すと、兄は怒った顔で言い返した。
「どうして嫌がらせをされていると教えてくれなかったんだ。あんなところ、お前がきちんと通うような価値なんてないんだ」
「お兄さまだって、通っていたじゃない」
「あれは通ったんじゃなくて、必要だから顔を出しただけだ。学園の卒業資格がないと大学に入れないから」
「まぁ……そうだったのね」
大学は男性にしか入学資格がないので、マリーは調べることすらしていなかった。
「それより、嫌がらせがひどいと、どうして言わなかったんだ。父さんも母さんも、僕だって知らなかった」
「だって」
マリーはことりと小首を傾げた。
「子供相手に真剣になったって無意味だわ」
マリーの言葉に、兄は絶句して、レオナルドは低く笑った。
「彼女、過剰適応してるんですよ。下手に王宮になんか出さない方がいい、あそこは魑魅魍魎の伏魔殿です。彼女の性質との相性は最悪の部類でしょうね。だから言ったでしょう」
「だとしてもお前のところに出すのは言語道断だ。もっと悪い」
「そうでしょうか」
言い争う男性陣の前に、母は穏やかに話しかけた。
「もし殴り合いをするなら紳士クラブでやってくださいね。きっと賭けが始まるだろうから、そうしたらわたしはロナルドに賭けることにしておいてちょうだい。明日のお茶代くらいは稼げるかもしれないし。マリーは子爵に賭けたらいいわ。そうしたらどっちが勝ってもそれなりに儲かるでしょう」
兄とレオナルドの話し合いは、結局まとまったのか散らかったのかわからないまま、一度解散になった。
兄の出勤の時間が近づいてきたからだ。
レオナルドは、今度は父が帰宅してから挨拶に来ると言って帰って行った。
不機嫌そうな兄は、「今日は早く帰る」と言って、足早に出勤していった。
「それなら、今夜の晩餐は他所にメニューを頼まないとね。子爵閣下が見えられるなら、あまり質素なものは出せないし」
シンディによその料理人に晩餐を任せることを伝えると、母はマリーに聞いた。
「そう言えば、あなた学校は大丈夫なの?寮は門限があったでしょう?」
「うん、一度戻って、外泊届けを出してくるわ。寮母さんに怒られちゃうから」
母に聞かれて、初めて学校のことを思い出した。たったの二、三時間ほどのことだったのに、もうすでに丸一日過ごしたくらいの感覚だった。
家から出て、辻馬車を拾い、早朝とは真逆のルートで学園に戻る。寮母に外泊届けを出して、そのまま家にとって帰る。
母は急遽決まった晩餐のために慌ただしく準備を始めていた。
メニューの決定に、使用するシルバーの確認と磨き出し。カトラリーの他に、グラスの数の確認も、食器をどうするか決める必要もある。さらに、テーブルクロスの変更をして、飾り付けの決定もしなければいけない。
マリーの家は、使用人も最低限しかいないので、手が回り切らない。マリーはシルバーの確認と磨きだしのために、引き出し棚の鍵を貰って、準備の手伝いを始めた。




