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ねぇねぇ、これってどう思う?

マリーはやっと帰り着いた自分の寓居で、ほうと安堵の息を吐いた。

無造作に手に持っていた鞄を床に落として、ぐったりとソファに傾れ込む。

レオナルドから伝えられた話の内容は、とても魅力的な話だった。

レオナルドから持ちかけられたのはマリーをスカウトしたい、という話だ。食事をしながら話してもらった詳細はかなりの高待遇で、マリーはその場で即決しないために多大な努力が必要だった。


レオナルドはきちんとフルコースをコーヒーと小菓子までしっかりと楽しんでから、返事をその場でしないマリーにこう言った。


「決断は早めに頼むよ。なにせ、候補は他にもいるんだ」



実にいやらしい手口だ。世間知らずのマリーでも、この手口がわかりやすい圧迫だとわかる。それでも、はっきりとした答えを、自分一人で返すのは躊躇われた。

なにせ、マリーがスカウトされたのは因縁のある公爵家なのだ。待遇に釣られてほいほいついて行って、大変なことになったら目も当てられない。ただ、両親や兄は喜んでくれるかもしれない。さらに、世知長けた兄から、うまい助言がもらえたら上々だ。

マリーは今までやっていた試験対策を全て放り出して、父親に会うための算段を立て始めた。

父は王宮の法律関係の省庁で一官史として働いている。基本的に朝九時出勤の夕方六時定時で働いていて、その基本ルーチンが変わることは滅多にない。

朝早くに実家に帰れば、父も母も、なんなら兄もいるだろう。


マリーは部屋に帰ってからするつもりだった勉強を全て取りやめて、明日の朝早くに実家に帰るためにさっさと眠りについた。



一番鶏が鳴いてから1時間もたたない薄明かりの中、マリーは学園の敷地から出て、大通りに出て、辻馬車を捕まえた。

朝早い時間のため、まだ準備の途中だった御者はかなり嫌な顔をしたが、多めに銅貨を握らせた途端ににこやかになった。


マリーの実家は、王都の中の、商家の多くいる住宅街にある、少しばかり上等なアパルトマンの一角だ。

父と兄の出勤に都合のいい立地にあるため、学園から行くにはかなり遠い。マリーは辻馬車から降りて、アパルトマンのドアノッカーを三度鳴らした。

しばらくしてから、中からマリーの幼い頃から勤めてくれている老メイドが顔を出した。


「はいはい…こんな朝早くになんの……、マリーお嬢さま?」

「ただいま、シンディ。お父さまたちは起きていらっしゃる?」

「ええ、旦那さま方は、今し方に起きていらしたばかりですよ」


シンディに中に入れてもらうと、懐かしい実家の匂いがした。父は値のはるシガーは吸わず、労働階級の好む紙巻きタバコばかり吸うので、そのにおいがいつもしていた。本人は、シガーが高いから、とは言わず、こいつの方が旨いんだ、といつも嘯いていた。それと、濃いコーヒーと焼いたトーストのにおい。いつもの朝の匂いだ。

食堂に入ると、すでに父が高級紙を読みながら、コーヒーを飲んでいるところだった。


「おや、マリー?どうしたんだい?」


父は食堂に入ってきたマリーの姿にとても驚いて立ち上がった。


「お父さまにご相談があるんです」


マリーの緊張した面持ちに、父も何事か悟ったらしい。


「わかった。ほら、隣に座りなさい」

「お話しするのは、お兄さまとお母さまが揃ってからでもいい?」

「もちろん、それならゆっくり朝食を摂ってからにしよう」


マリーの前に新鮮なミルクがグラスに用意されるころに、母と兄が食堂に入ってきた。


「まぁ!帰ってきてたの、マリー!」


母はマリーの姿を見つけると、大きな笑顔を浮かべて早足で近づいてきて、ぎゅうと力強く抱きしめてくれた。抱きしめ返すと母は頬にキスしてくれた。兄は驚きながらも嬉しそうに顔を綻ばせて、マリーのそばに来てくれた。


「驚いた。こんな朝早くからどうしたんだ」

「みんなに聞いてもらいたいことがあるの」


久方ぶりの家族の食卓は、とても暖かくて居心地が良かった。


最高級ではないが、焼きたての温かいパンとバター、新鮮なミルクと果物かごがテーブルの真ん中に置いてある。

穏やかな時間は、マリーが学園に入学する前は当たり前だったものだ。今はマリーは歩いて登校するには遠いため、狭い寮の部屋で一人で暮らしているので、食事はさっさと終わらせてしまうものだった。

穏やかに言葉を交わす父母と、優しい兄のいる食卓は、マリーが社会に出たら、もしかしたらもう二度と入ることのできないかもしれないという切なさを引き連れてきた。じくりと痛む胸の中心を、ミルクがとろとろと流れ落ちていく。甘くて白い乳が、悲しさを流してくれればいいのにとマリー強く願っていた。これから話すことに、強い期待と少しの不安があるせいで情緒が不安定になっている。


「それで、マリーはどうしたんだい。学校で、なにかあったのかな」


パンを食べ終わった後のはずなのに、喉の奥がきゅうと塞がる気がした。マリーは、軽くとんとんと胸を叩いてから、喉の奥をことりと鳴らした。


マリーは端的に、レオナルドから、公爵家へのスカウトの打診があったことを報告した。

待遇はとても良く、住み込み勤務で、生活必需品や、仕事のためのものは全て公爵家持ちで用意してくれると言う。そして、これが1番大切なのだが、もしマリーがレオナルドの期待以上の働きをした場合、残った借金を一部減額する用意があると言う。

これを聞いたマリーの両親は、予想を裏切って顔を曇らせた。兄に至っては、ひどく眉を寄せて鼻柱に皺が寄っている。


「マリー、このお話しはお断りしなさい」


穏やかに父はそう言った。


「どうして……せっかくいいお話しなのに」

「マリー、お前があそこの家に世話になる必要はないんだよ。私とロナルドが頑張ればいいだけの話なんだ。何度も言っているが、お前は頑張って王宮に務めようとしているが、女の子なんだから、そんな無理はしなくてもいいんだ。私にだってツテくらいはあるんだから、安心しなさい。お前だけの優しい旦那さまを探してくるから、学校が全部終わったら、お母さまと家でゆっくりしておいで」


父は優しく諭してくれたが、マリーは納得できなかった。そんなことになったら、いじめられても歯を食いしばって頑張ってきた、マリーの努力はどうなってしまうのだ。救いを求めて、兄の方に振り向く。


「お兄さま……」

「僕はそいつが怪しいとしか思えない」

「会ったこともないのに!」

「会ったことがなくてもわかる。そいつはお前の弱みに漬け込んで、お前を侍らそうとする下衆だ。金をちらつかせて女をいいようにする男は、総じてろくでなしの類だぞ。僕が言うんだから間違いない」


兄の言葉にマリーは、思わず言わなくてもいいことを漏らしてしまった。


「レオナルドさまは、私を愛人にしないと約束したもの……」


マリーの言葉に、両親は言葉に詰まってみるみる顔色を悪くした。鼻白んだ兄は、吐き捨てるように口汚く言い捨てた。


「他人の妹を、ずいぶん虚仮にしてくれる」


兄の言葉には、隠しきれない怒気が滲んでいた。兄の様子に、マリーは自分の失言を悟った。


「違うの!お兄さま、お願い聞いて!」


縋ろうとしたマリーの手を振り切って、兄は外へと足を向けた。


「父さん、今日は午後から出勤します」


兄は従僕に指示を出して、さっさと食堂を出て行ってしまった。


「まって!お願いお兄さま!」


マリーの鼻先で、大きな音を立てて食堂の扉が閉まる。

ショックで立ちすくむマリーを、母が後ろから優しく抱きしめた。


「マリー、ロンがあとは先方と話をつけてきてくれるわ。お母さまと一緒に帰ってくるのを待ちましょう?ね?」


マリーは、期待していた通りに事態が動かなかったことに、ひどいショックと失望を感じていた。


「わたし……わたし……っ、お父さまもお母さまも喜んでくれると思ったの……。借金が減るって……すごいって、喜んでくれるって………」 


「ねぇ、マリー。あなたがとても頑張り屋さんなのはみんな知ってるわ。でも、公爵家に行くなんて、そんなことまでしなくてもいいの。お母さまたちは、あなたが健康で、幸福でいてくれるだけで嬉しいんだもの」


ね、と母は穏やかにマリーの顔を覗き込んだ。年齢の割に若く見える母は、目尻に小さな皺を寄せて、穏やかに微笑んだ。


「だから、泣かないで、マリー。あなたは笑っているのが一番似合うわ」


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