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権力ってすごい、つよい

冬の長い影だけを供に、マリーは早朝の校舎へ足を進めていた。まだ日が登ってわずかの時間だが、マリーは自分の席の確認をしなければならなかった。

冬も深まる最近は、すっかり事態が悪化して、机の天板は消えない落書きと卑猥な言葉が刻まれてしまったし、椅子はインク染みが消えなくなって、足が一本短くなってしまっていた。椅子に座るたびにガタガタ鳴るし、机を使うたびに卑猥な言葉が目に入って不愉快だったが、マリーの机はこれしかない。


教室に入ると、マリーの机はちゃんと中に入っていた。そのことにホッとしたが、天板には黒いリボンがかけられていた。サテンの艶々とした、太いリボンだ。意味は、死んだものが使っていた机。

中々気の利いたリボンだ。今日はこれを髪に飾って授業を受けよう。

リボンに触ると、とても手触りがいい。これを飾ったのは、金だけはある子供たちだ。さぞ、いいリボンなのだろう。

鼻歌を歌いながら、マリーは机の中を確認した。幸いなことに、嫌がらせはリボンだけだった。今日はラッキーな日だ。


黒いリボンを髪に結いつけて、マリーは持ってきた教科書とノートを開いた。机と椅子が無事な日は、予習をすると決めている。

ゆっくりと曙光の差す寒い教室でノートを繰っていると、目の前に誰かが立った。


わざわざ、マリーに近づいてくる人間は少ない。近づかないと果たせない用があるか、嫌味を言うか、嫌がらせをするかのどれかの時だけだ。

目線を上げると、そこに立っていたのはレオナルドだった。

普段、マリーとレオナルドの間に接点はない。クラスが違うし、相手は人気者だ。なおさら話すことなどない。紹介してくれるような友人などいないし、誰もマリーを紹介したがらない。

何事かとマリーが口を開く前に、レオナルドが髪に飾られた黒いリボンを軽く摘んで引っ張った。


「誰か死んだのか」


黒いリボンは喪中の証だ。


「ええ、どうやらわたしが」


レオナルドは眉を顰めた。意味を受け取り損ねたのだろう。マリーは丁寧に説明し始めた。


「わたしの机は人気者で、大抵朝はいつもどこかに出かけるか、興奮した誰かの落書きが残ってるんです。今日は、ご丁寧に黒いリボンで飾ってもらって」


マリーの答えに、レオナルドは低い声で笑った。


「なるほど、それで……娼婦の鏡台?比喩にしちゃダサい」


レオナルドは机にナイフで彫られた文句を見て、嘲るように呟いた。


「センスを疑いますが、机の自主性を大事にしてて。何度言っても、言うことを聞きませんし」


レオナルドが何を言いたいのかわからず、マリーは軽口で返した。マリーはいじめられているが、レオナルドに言っても仕方ない。


「いい心がけだ。部下の管理は上司の仕事だが、自主性を重んじることも大切だ。しかし、部下がやるべきではないことに熱中している時は、それを諌めるのも上司の仕事なのだろうな」


マリーはそれを聞いて、ぱっと顔を上げた。レオナルドの言う言葉の意味に、胸の奥がざわめく。


「どう言う意味でしょうか」

「僕は毎朝、君が夜が明けてすぐに登校するのが不思議だった。なぜなのか不思議に思いながら、ずっと確認することはなかった。こう言うことだったのかと、いまやっと理解したよ」

「……なぜそんなことを知っているんですか」

「朝起きて、部屋の換気をしてると見えるだけ。ご納得いただけたかな?」


レオナルドには、マリーたち一家を恨む正当な理由がある。そういう意味で、マリーのいじめの首謀者を務める大義名分がある。だが、マリーの知る限り、レオナルドが加担していることは一切なかった。


「僕は、別に君たち一家に思い入れは全くないよ。当家の人間は誰もなんとも思っていない。それどころか、哀れだと思っている。先祖のやらかしたことで、我が家に金を返し続けなければいけないなんてってね。そのおかげで、君たち一家は結婚もままならないし、就職しても出世が難しい。評価は高いにもかかわらず、だ」


レオナルドの口から語られることは、マリーにとって衝撃だった。評価は高い?果たして本当にそうなのだろうか。


「いい加減、それは是正されなければいけない頃だろう。親の因果が子に報う、だなんて、馬鹿馬鹿しい。一体何世代たったと思ってるんだ。有能な人間が馬鹿を見るだなんて無駄なこと、いい加減終わりにしないと前に進まない」


レオナルドは皮肉げに口の端を歪めた。


「そう思わないか」


遠くから見るレオナルドは、穏やかな笑みを浮かべる好人物だった。地位に裏打ちされた寛大さと、裕福な家の人間らしい余裕があった。

今マリーの目の前にいる人物が同一人物だとは到底思えなかった。皮肉げに唇を吊り上げ、目を細めるやり方は、穏やかさよりも胡散臭さが勝る。

マリーはぱちぱちと瞬きを繰り返した後に、ゆっくりと口を開いた。


「意味を理解しかねます」


相手は公爵家だ。マリーが下手なことを言って不興を買い、家に迷惑をかけるわけにはいかない。


「わたしはしがない家の娘です。あなたの家に借金のある。わたしの立場で、なにか言えることがあるとすれば、肯定だけでしょう。その上でなお、わたしからなにか言わせようとする意図はなんですか」


わたしの返答に、レオナルドは困ったように小首を傾げて微笑んだ。チャーミングな笑みだ。寒さに頬が赤らんでいて、余計にコケティッシュだった。


「困らせるつもりはないんだ、ただ、君の助けになればと」

「そうですか、お気遣いありがとうございます」


マリーは早口でそれだけ言って、手元のノートに目を落とした。


「君が僕のそばにいれば、少しは扱いがマシになる」


レオナルドの提案には、なるほどその通りだと思う。そこには傲慢さと、下々の人間に哀れみを投げてよこす優越感が滲んでいた。

マリーは動かそうとしていた手を止めてはっきりと言った。


「わたしは決して愛人業はするなと、親に止められているんです」

「へぇ。それはお気の毒に」

「まともな親で本当に助かりました」


レオナルドの言いたいことは分かった。もう十分だ。

マリーはレオナルドのことを無視して、手元のノートと教科書に集中し始めた。

マリーがふと気づく頃には、レオナルドの姿はいつのまにか消えていた。きっともう二度と話すことはないだろうと、このときマリーは思った。



その時を契機に、マリーの机はどこにもいかなくなった。

ものが行方不明になることも、靴が捨てられたり、池に沈められていることもなくなった。それどころか、周囲はマリーを無視するだけになった。遠巻きにこちらを見て、くすくす笑うこともない。真後ろに急に立たれて、卑猥な言葉を投げかけられることもない。

いちおう、最低限の必要事項はメモとして投げ渡される。きっと口をききたくないのだろう。汚い走り書きのされたくしゃくしゃの紙ごみのようなメモを、放り出すようにしてよこされるのだ。初めは面食らったが、口をきくよりマシだ。

わかりやすいいじめは無くなったが、マリーはルーチンを変えなかった。早朝に登校し、何事もなければ、復習をする。よれよれにならなくなった教科書とノートは、とてもペンが走りやすい。それが1番、マリーには嬉しかった。



年が明けてすぐのことだ。マリーへのいじめを完全に無視していた教師から、机を新調することになった、と通達がきた。

急になんだろうとマリーは思ったが、机が新しくなるなら万々歳だ。汚い言葉の彫り込まれた天板と、がたつく椅子とおさらばできる。

汚れてフレームの歪んだ机は業者が引き取り、代わりに傷ひとつない机がマリーのものとしてやってきた。

教室の人間は、すっかり綺麗になったマリーの机を見て、一瞬目を見開いたが、誰も何も言わなかった。

その日の授業が終わったあと、寮の自室に引き返してから、マリーは堪えきれずに嗚咽を噛み殺して涙を一粒だけ落とした。どうしても我慢できなかった涙は、着古して毛羽だったブラウスの襟を濡らし、透明なしみを作って、すぐに乾いて消えた。


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