婚約破棄ですか? いいですけど、あなたは絶対に後悔しますよ?
これより毎日一作ずつ異世界恋愛投稿再開します。
誤字報告ありがとうございました。
「フェルト・ドーリアン、君との婚約を破棄させてもらう」
夜会の場にて淡々とした口調で、デュナメストリア伯爵家の嫡男であらせられるニールが私に告げた。
突き放す口調でもなく、隣に他の女性をはべらせながら見下しながら言うでもなく、ニールは私を見据え、そう告げたのだ。
「……理由をお聞きしてもよろしいでしょうか?」
「君だって分かっているだろう。俺と君では釣り合わないことくらい」
三年前に私の生家が事業を成功させて男爵位を買った後、野心家で計算高い父が持ってきた婚約話。その相手こそがニールであり、両家にとって更なる利益をもたらすための婚約が結ばれた。
早い話が政略結婚のようなものだ。それでも、私たちはこの三年間を幸せに過ごしてきたと断言できる。私もニールも幸せな時間を過ごせたと、神の御前でも誓える。
しかし私たちに落ち度はなくても、世間はそう思ってくれないのだ。
金で爵位を買った家の私には、常に嫉妬や軽蔑の眼差しが向けられていた。
今だってそうだ。夜会に集まった高位貴族令嬢たちは、ワザと聞こえるように「やっと売女に相応しい末路が訪れた」とか「金で買った爵位では釣り合わないのよ」と話している。
でも私はそんな野次馬たちは無視して、ニールの青色の瞳を見つめ返して口にした。
「破棄してしまえば、もう戻れませんよ? 私は生家に連れ戻されてしまいます。きっと、もう会うこともなくなります――それでも、婚約を破棄なさるのですか?」
ニールの誠実で思慮深い瞳を見つめながら問えば、答えはすぐに返ってきた。
「破棄する。すでに君が伯爵邸に持ち込んだ私物をドーリアン男爵家に送る手はずも整っている」
つまり、私との婚約破棄は以前から決まっていたのだ。裏で手を回し、公衆の面前で婚約破棄を告げることで周知の事実とし、身分の差から何も言い返せないようにする。
「……あなたは、いつもそうでしたね」
聞こえないよう、口元を隠して呟いた言葉は、喧噪の中へと消えていく。
だけど、ニールはいつだって抜け目がなくて、誰よりも聡明で、合理的に物事を解決してしまう。
私がいなくなり、もっと爵位の高い相手と結ばれたら、宰相の座だって手に入れられるかもしれない。
けれど、私にはどうしても伝えておかなければならないことがあった。身分違いから不遜な発言として罰を受けるのを覚悟で口にする。
「私と婚約を破棄したことを、あなたは必ず後悔するでしょう」
断言する私の口調に迷いはない。下手をしたら生家にも悪影響があるというのに、震えることもなく言いきれた。
だからもう一言、この勢いのままに付け加えた。
「絶対に後悔します。それでも、婚約を破棄するのですね?」
「……ああ、二言はない。今この時をもって、君はデュナメストリア家の一員から、ドーリアン家の令嬢に戻るんだ」
「そうですか……分かりました。今までありがとうございました。では生家に帰る支度もあると思いますので、失礼いたします」
ニールに背を向けて歩き出す。嘲笑の声が聞こえながら去っていく中、私はただ、伯爵家での日々を思い返しながら、小さな溜息を零していた。
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デュナメストリア伯爵邸に着くまで、馬車に揺られながら、小窓を開けて夜の空を見上げた。
秋口の夜空に満月が映え、小窓から、まだ暖かさの残る風が流れてくる。
ふと、こんな夜を私とニールは婚約を結ぶずっと前から共に見上げてきた事を思い出す。
ドーリアン家が男爵位を買う前は、デュナメストリア侯爵領に商人として家を構えていたのだ。
一市民でありながら多大な利益をもたらす商人として、あの頃はよくお呼ばれしては、幼いニールと顔を合わせていた。
いつからか打ち解けて、身分の差も忘れて遊びまわったものだ。
今でも、あの日々は克明に思い出せる。
男女の垣根なく、デュナメストリア侯爵領の草原で駆け回った幼い日々。
数年経って成長してから川でびしょ濡れになったとき、塗れて透けた私の身体を見て頬を染めながらも上着を貸してくれたニールの姿。
成人を控え、お父様の指導の下、お金稼ぎから社交界での身の振る舞いなどを学んだ日々。「伯爵家の指南役より博識だから」と、訪れてきたニールと隣り合って座り、勉学に励んだ日々。
そしてお父様が男爵位を買って、これからは貴族だと息巻く中、ニールとの別れに涙した別れの日。
年月が流れ、ドーリアン男爵家が大金持ちになり、またこうして婚約を結ぶことで再会し、嬉しくて涙した日。
全部、私の宝物だ。お金で爵位を買った家の娘だから、お金の重要性は誰よりもよく知っているけど、こればかりはお金に変えられない「宝物」。
「もう全て戻らない日々――弱気になってはいけませんね、これからはまた男爵令嬢として頑張らないといけないというのに……」
ふと呟いた言葉は、風の中に消えていった。私の心の内を表すように小窓から見える月へ雲がかかり、夜会の場の明かりも遠のいていく。
肌寒い風を感じて小窓を閉じると、背にもたれかかった。
伯爵邸に戻っても、生家に戻っても、こんな風に静かに過ごす時間などしばらくは訪れないだろう。
だから目を閉じて、今だけは、と少しだけ自分に甘えた。
今だけは幸せだった日々の思い出に浸っていたいと、心の中で願いながら。
すると、霧の向こうで朧気に揺らぐ光のように記憶が戻ってくる。
一番最初に思い出されたのは、私がお父様とお母様に連れられてデュナメストリア伯爵領をあとにする時の記憶だった。
忘れられない、あのときのニールの顔。涙を流す私を抱きしめてくれた温もり。
たくさんの言葉。懐かしい声。
そして、交わされた約束。
夜会の場で私に向けられていたものと同じ、覚悟の籠った彼の瞳。
なにもかも懐かしい。
これから、私は馬車馬の如く忙しい日々が待っているのだ。だから懐かしむようにそっと目を閉じた。
####
私たちの別れは、成人を迎えた十八歳の時だった。
お父様が長年夢見た爵位を手に入れることが出来て、紋章院から新たな男爵家の紋章を授与される手続きも済ませて、領地も整えて、あとは治めるべき私たちが赴くだけだった。
私は別れの日まで、一粒たりとも涙は流さなかった。商人の娘として、なによりこれからは貴族の令嬢として過ごすのだ。それはつまり、もうニールとは対等に話すことも会うことも出来ない事を意味していた。
金で爵位を買った男爵家の令嬢と、国の内政にも口出しできる伯爵家の嫡男。
誰がどう見たって身分差がありすぎる。だから対等に顔を合わせて話せる時間は、この領地を出るまでの日々しかなかった。
せめて残された日々を涙にくれて過ごすのではなく、笑顔で過ごしていたかった。
無理をしてでも、ニールとの残された日々は笑顔で送りたかったのだ。
だけど、いざ馬車に乗って別れる際、駆けつけてきてくれたニールを瞳に映してしまった時、我慢していた涙がとめどなく流れた。
私もニールも、周囲の視線なんて関係なしに強く抱き合った。離れたくないと喚いて、ニールは必死に涙を我慢しながら強く抱きしめ返してくれた。
あのまま時間が止まってくれたらいいと、抱き合うなか夢見ていた。けれど現実とは非情で、押し黙る人々の中からお父様が割って入り、時間だと告げた。
あの時ばかりは恨むのは間違っていると分かっていても、邪魔しないでもらいたかった。このまま私だけ残してほしかった。
そんな台詞が喉元まで出かかったとき、お父様はフッと微笑んで、私に「我が愛しの娘と長年世話になったニール様に誓おう」と、仰々しく前置きをしてから言ったのだ。
「この私はただの男爵で終わる気はない! いずれは王族にだって意見できる大物になってやるつもりだ! だからその道の途中で、必ず二人が結ばれるようにすると約束……いや、商人らしく契約しようじゃないか! もし破ったら訴えてくれても構わないぞ!」
お父様は、とことん野心家でお金儲けが大好きで、同時に成り上がる天才だ。私もその血を引いており、教えられることは全部教えたからと、いずれは斜陽になっている高名な貴族に取り入って家を建て直させ、優位な状況で婚約をさせてやると息巻いていた。
しかし、お父様はその未来を蹴って、私とニールを結ばせると誓ってくださった
「その時は、我が娘を幸せにしてくれますかな?」
「――はい、誓います」
お父様の試すような問いに、ニールの覚悟の籠った瞳と声が返される。
この時は夢物語だと思っていたというのに、お父様もニールも叶えてくださったのだ。
契約した通り男爵ながら大貴族に名を連ねるようになっていたお父様と、徹底した指導の下で育った私なら、公爵家に嫁ぐことだって夢ではなかったのに、爵位が下の伯爵家へ嫁ぐことを守ってくださった。
しかしそれもまた、今回の婚約破棄で無に帰してしまった。
いったいどのような顔で帰ればいいのか。そんな不安が込み上げた時、私は微睡みから目を覚ましたのだった。
時間とは、無情にも過ぎ去ってしまうものだ。伯爵邸につけば帰り支度を整え、翌日にはドーリアン男爵領へと馬車で送られた。
だけど悲しみにくれたり、思い出に浸るのは、もう十分だ。
これからは未来について考える。お父様には一商人が貴族になるという身分不相応の夢があったように、娘である私にも大きな夢がある。
夢への道には、行く手を阻む壁も山も沢山ある。だとしても、私は私の夢を諦められない。
叶えるための方法は分かっている。しかし情報が足りない。貴族間のやり取りや、なによりデュナメストリア家の現状について、詳細な帳簿のやり取りなどの記録が必要なのだ。
男爵家に着くなり、お父様の書斎へ急ぎ足で向かった。
せっかく叶えてやった約束を台無しにしたと咎められるかもしれない。今度はもっと爵位の高い相手に嫁いでもらうと強要されるかもしれない。
だとしても、私は立ち向かってやる。そう思い扉を開けると、お父様は私を一目見たあと、フッと笑ってから「話は大体聞いている」と言った。
「愛娘に公の場で大恥をかかせて、有無を言わせぬままここへ帰したデュナメストリア家の事も聞いている。なぜあれだけ愛し合っていたお前たちが別れるようになったのかも、大体推測できる」
全て知られていた。だとするなら、説明が楽だ。
私はもう一度ニールの元へ帰るために口を開こうとして、お父様は手で制した。
「なに、契約しただろう。必ず二人が結ばれるようにするとな。商人にとって、契約を反故にすることだけは避けなければならない」
「……では、お父様は私たちを再び結ばせてくださるのですか?」
「世の中がそんなに都合のいいことだらけではないのは、お前も良く知っているだろう。特に、私の教育を受けた身でデュナメストリア家に長年居たのだ。私がいくら金を積んでもどうにもならないのは分かっているんじゃないか?」
見透かされていた。恐らく私の考えていることなど、お父様からしたら全てお見通しなのだろう。
それでも契約は守ると言ったあたり、懸念していた事にはならないようだ。
「いいかい、フェルト。私は誰もが無理だと笑うなか成功を収めた。そして娘であるお前には、その体験から知識まで全て教えたつもりだ。だから、何か願いがあって叶えたいのなら、自分の力でやりなさい。もちろん、私とて一人で全て成し遂げたわけではない。様々な人から手を貸してもらって成功をした。だから余程のことではない限り、私は力を貸そう」
夢見がちだと笑われる中、商人から貴族にまで成り上がったお父様が味方してくれる。
私が望むことくらい予想がついているだろうに、背中を押してくれている。
ならば、私はその力を存分に借りて、私の夢を叶えよう。そしていつか、恩返しをするのだ。
「お父様、ではいくつか拝見したい書類があります」
凛然と言い放てば、お父様はニッと口角を上げて「では商談開始だ」と告げた。
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夜会の夜から一か月ほどが経った。
あの夜、フェルトに婚約破棄を告げるのは一種の諦めだった。
デュナメストリア家は投資が失敗し、経済難に陥っていたのだ。
あの父親のもとで育ったフェルトと共になら切り抜けられると思っていたが、このままでは落ちぶれてしまうのは目に見えていた。
没落貴族の行く末など酷いものだ。男なら奴隷船送りで、女なら娼館送りか……。
どちらにせよ、あの夜会の時点でフェルトとは「釣り合わなかった」のだ。
男爵の身でありながら大貴族相手に渡り合うドーリアン家の令嬢と、没落寸前の伯爵嫡男。
フェルトには輝かしい未来があるが、俺にはもうない。
借金の支払いのため、屋敷にある金目の物はほとんど売り払ってしまった。父上も母上も、残っていた僅かな金を手にどこかへと逃げてしまった。領民も去ってしまった。
だが次期当主として、先祖から受け継がれてきたこの土地を見捨てることなどできない。貴族として持っていたほとんどを失い、屋敷に仕える使用人も数えるほどしかいない中、私は帳簿と向き合い、ひたすらに思考を巡らせていた。
しかし限界が来た。国王様がこの地の在り様を聞いて無様だと吐き捨てたらしく、王命により貴族院がデュナメストリア家の紋章を取り消したのだ。
要は、もはや私は貴族ではなくなってしまった。
全てを失ってしまった。もうどうにもならないと自棄になる寸前の、とある朝方だ。屋敷の扉を叩く音がして、出迎える使用人もいないから扉を開けると、フェルトが立っていたのは。
「おはようございます、ニール」
「……フェルト?」
死んだような顔で出迎えると、そこには確かにフェルトがいて、「長い付き合いだというのに、わざわざ名乗らなければいけませんか?」と呆れながらも笑みを見せていた。
「いや、しかし……なぜ?」
フェルトは貴族らしからぬ地味な外套に身を包み、頭陀袋を手に立っていたのだ。
婚約を破棄してから一か月が経つのに現れた理由も、みすぼらしい格好の意味も分からない。
だが、フェルトは俺を押しのけて屋敷の中へ入ると、「酷い有様ですね」と口にした。
「埃だらけですし、蜘蛛の巣も張っています。これでは伯爵家なんて名乗れませんね」
「いや、そんなことより……なぜ、ここに来たんだ?」
ようやく絞り出せた言葉に、フェルトは軽く微笑んだ。
朝日が差し込むと同時に、淡い光が笑顔を照らしている。
もう、かつて別れるときに泣いていたフェルトの姿はすっかりなくなっていた。
「小さな時から大好きな人を助けるために来たんですよ」
「ッ! それはっ! ……そんなことしなくていいんだ。君はもう自由だ。なんにだってなれるだろう? お父上の後を継いでもいいだろうし、商人になってもいい。貴族に戻るのだって、婚約破棄された経歴があるとはいえ、ドーリアン男爵の後ろ盾があれば可能なはずだ」
「ああ、それでしたらご心配なく。ドーリアン男爵家からは勘当されましたから」
「……は?」
「大衆の前で恥をかかせた相手の元にまたしても行くような愚かな娘など要らん、とお父様は非常に怒りまして。貴族院に離籍届けも出してしまったので、今の私はただのフェルトです」
思わず言葉を失ってしまった。開いた口が塞がらないというのはこの事だろう。
だが、そんな事は知らずか、フェルトは微笑みを浮かべたまま告げた。
「だから言ったでしょう、”あなたは必ず後悔する”と。どれもこれも、ニールと一緒にいたいから投げ捨てたんですから」
「そ、それだけか!? たったそれだけのことで、貴族の名も、富も、何もかも捨ててきたのか!? き、君は馬鹿だ! 大馬鹿だ!!」
「はい、馬鹿です。ですが馬鹿だと笑われながら夢を叶えた人が父親なんで仕方ないんですよ。しかし私も父上も愚か者ではありません。”この私自らが商人としての知識を与えたお前とは、例え離籍していたとしても商売相手としてこれからは友好的な関係を築こう”と、言質をいただきましたから」
クスクス笑いながら楽しげに話すフェルトは「さて、まずはどこから手を付けますか」と意気込んでいた。
頭陀袋から、なにやらドーリアン家の紋章が書かれた羊皮紙を取り出すと、「今の経済状況で取引できる相手は……」と呟いている。覗けば、デュナメストリア家の取引履歴や経済状況が事細かに記されていた。
フェルトとドーリアン男爵なら、この程度を予測するのは情報さえそろっていれば簡単な事だったろう。
「……誤解してたよ」
「幻滅しましたか?」
「いや、こんなに馬鹿な事をするとは思わなかったのは確かだけど、それよりも――」
俺は羊皮紙と睨めっこしていたフェルトに歩み寄ると、その身体を抱きしめた。
「こんなにも俺の事を想ってくれていたなんて、知らなかったから」
「……重たい女に好かれてしまったと、後悔なさいますか?」
「君こそ、没落貴族と一緒に堕ちるところまで堕ちてから後悔するかもしれないよ?」
「でしたら問題ありません。元お父様はよく仰ってましたから。”人が人生で堕ちるのは、這い上がることを学ぶためだ”と。なので、仮に失敗しても学びの機会だと思うことにします」
まったく、なんて前向きな婚約者なんだろう。これだけ前向きで、俺のために全てを捨ててきてくれたのなら、こんな状況からでも這い上がってやるしかないじゃないか。
「……疲れ切っていたから全てを諦めて楽になろうとしていたというのに。また無理をしなくてはならないじゃないか」
「だから言ったでしょう? 後悔すると」
そもそも私を家に置いていればこんな目にはならなかった、と口にしだすフェルトを抱きしめながら、誰もいなくなった屋敷の中に風が吹き抜けた気がした。
これから二人で歩き出すのを助ける追い風のようで、俺はクックと笑った後、フェルトに問いかけた。
「じゃあ、まず何から始めるのか、一緒に考えよう」
「はい、昔みたいに頑張りましょう」
言葉を交わすと、フェルトはニッコリと笑った。同時に優しい風と、朗らかな朝日が俺たちを包んだのだった。
―――
【作者より】
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