俺の彼女は小説家
彼女が小説家としてデビューした。率直に言って、驚いた。俺は彼女から「今日から小説家になりました」と言われた時、彼女が小説を書いていたことを初めて知ったからだ。「筆名は叶城理子です、よろしくね」と彼女は付け足し、それは良い笑顔で笑った。
――翌日、書店に「叶城理子」の書いた本が平積みされていた。有名な出版社の賞を受賞した彼女は、それが堂々と書かれた帯付きの文庫本を出版するに至った。俺がその文庫本を一冊、手に取った時にスマホが鳴った。
”今日、時間ある?”
彼女からだった。俺は「あるよ」と返した。
”いつもの喫茶店で待ってるから来てほしい”
俺は「分かった」と返し、彼女の書いた本を持って会計に向かった。
書店を出ると、小雨が降っていた。俺は本を鞄に仕舞い、彼女の待ついつもの喫茶店へと向かった。きっと彼女はいつものようにアールグレイを飲んでいる。冬だから、ホットだろう。そんなことを考えながら俺は急ぎ足で歩いた。
カランというドアベルを鳴らして喫茶店に入ると、奥の席で彼女が片手を上げて笑った。机にはホットの飲み物が一つ、置かれていた。水色からして紅茶だろう。
俺が向かいに座ると「ごめんね、急に」と少し困ったように彼女が笑った。
「どうした」
「ちょっと、困ってて」
「具体的に」
「帰り道、分かんなくなっちゃって」
「え?」
ははは、と彼女は乾いた笑いを洩らした。
「次回作の構想を練ろうと、ここに来たのは良かったんだけどね。なんか頭痛いなーと思ってて。アールグレイだけ飲んで帰った方が良いかな、雨降って来ちゃったしと思ってたの。で、飲んでたんだけど、だんだん頭の中、ぼやけて来ちゃって。ふと、遠い感じになって。あれ、いま何を考えていたんだっけ、みたいな。何か変だから帰ろって立ち上がろうとして、どこに? ってなって。家への道が全く分からないの」
そこまで彼女は一息に話すと、ふう、と溜め息を吐き出した。そして、また困ったように笑った。ごめんね、と。
「いや……こういうこと、いままでにあったのか?」
「ずっと前にね。響と付き合う、ずっとずっと前」
「医者には?」
「行った。解離の一種らしい」
「かいり?」
「自分が自分でなくなる感覚らしいよ。私も良く分かってないけど。ずっと前になった時は、やっぱり家の帰り道が分からなくなって。でも、家のすぐ近くまで来てたから。何とか帰れた、一人でも。今日は久し振りの感覚で、ちょっと怖くて。一人で、いたくなくて。響のこと、ぼんやりと思い出して。メッセージ履歴見て、あっ、彼氏だって分かって。それでメッセージ書いた。いつもの喫茶店にいるっていうのは自分で分かったし。あ、何か飲むでしょ?」
彼女は弱く笑って、俺にメニューを差し出して来た。それを受け取りながら、俺は何を言うべきか考えていた。
「すぐ、帰らなくて良いのか」
「うん。響のことは分かるし。少しまだここにいたい気持ち」
「そうか。じゃあ、理子は何か食べるか?」
「じゃあ、チョコレートのケーキ」
俺がベルを鳴らすと店員がすぐにやって来た。ホットコーヒーとチョコレートケーキを注文し、俺はメニューを元の位置に戻した。
「……本名で、デビューしたんだな」
何を言って良いのか駄目なのか分からないまま、俺は理子に言った。
「うん! やっぱり本名が最強だもん」
「そうか?」
「うん。本当の私の名前を世界に刻む」
「壮大だな」
「やるからには、でっかく!」
「良いと思う」
今度は嬉しそうに理子は笑った。
やがて運ばれて来たホットコーヒーとチョコレートケーキをそれぞれに味わっていると、理子が不意に窓の外を見ながら言った。
「私さあ、大丈夫かな」
「何が?」
「こんな、急に帰り道も分かんなくなっちゃうの。迂闊に一人でお茶も出来ないじゃん」
「病院、行くか」
「もう十年は行ってない。そもそも、ちゃんと通院してたわけじゃないし」
「これを機にさ、行って聞いて貰うのも良いと思うよ」
「うーん。何かそういうのじゃないけど、そうしようかな」
「うん。一緒に行くよ」
「そ?」
「うん」
あっ、倒れちゃった。と、理子はチョコレートのケーキを銀色のフォークで立て直そうとしていた。
「あのさ」
俺はずっと前から思っていたことを言う決心をし、そう切り出した。
「一緒に、暮らさないか」
「えっ、私と響が?」
「他に誰がいる」
「いや、いないけどさ。えー、同居ですか?」
「同棲かなあ」
「でも、私、仕事辞めちゃったよ」
「経理?」
「そう。派遣社員だったし、先月末の更新の時に更新しないで辞めた。その時にはもう受賞のお知らせ来てて。担当さんが付くことも分かってたし。文庫化して出版するって聞いてて。それなら小説家一本にしたいって思って。数字、別に好きじゃないし経理には思い入れなかった」
「好きなことやった方が良いよ、理子は。お金の心配なら、いらないからさ」
「私も少しなら貯金あるけど。あとは賞金貰った。印税もこれから入って来るらしい」
「すごいじゃん」
「うん、そうかも」
にこ、と理子は笑った。俺は理子の笑った顔がとても好きだから、いつもそうして笑っていてほしいと思う。俺は改めてそう思い、もう一度、言った。一緒に暮らそう、と。
「ありがとう。よろしくお願いします」
「こちらこそ」
「いえいえ、そんなそんな。でもさ、帰り道が分かんなくなっちゃうような女だけど大丈夫?」
「あまり一人で外出してほしくないな。もしくは、スマホにGPS入れるとか」
「どこにいても分かっちゃうじゃん」
「駄目か」
「駄目じゃない」
「うん」
理子は残りのチョコレートケーキを食べて、もう冷めてしまっているだろう紅茶を飲み干した。そして、静かにティーカップをソーサ―に置くと、忙しくなるね、と笑った。
「まず、家探し。あと、お互いの持ってる家電品とかの確認と。荷造りと。二人暮らしに足りないものは買わなきゃだし」
「良いな、二人暮らし」
「良いねえ」
「じゃあ理子の家に一緒に行って、そういうの考えるか」
「うん」
伝票を持った理子が、「行こっ」と言った。俺は理子から伝票を取り、「そうだな」と言った。
会計を済ませていつもの喫茶店を出ると、先程よりも雨は弱くなっていて、傘がなくても大丈夫なくらいだった。
「良かったー、傘ないもん」
理子が手のひらを上に見せて、雨の様子を見るようにしていた。
「そうだ、理子の本、買ったよ」
「えっ、買ったの! 言えばあげたのに」
「そこは買うでしょ」
「ええー。でも、ありがとう」
俺達は並んで歩き出した。二人で横断歩道を渡り、俺は理子を導くようにして歩く。
「感想、言ってくれるの?」
「勿論」
「うれしー!」
「応援してる」
理子が俺を見て、照れたように笑った。俺はずっと、この笑顔を見ていたいんだ。そう、また俺は考える。
「小説、どうやって考えてるとかも聞かせてよ」
「どうやってかあ。いつもいつでも考えてる感じかなあ」
「すごいな」
「いやいや。好きなんだ、それが」
小説について語る理子の横顔は生き生きとしていた。俺は、それが何より嬉しかった。
「彼女が小説家か。カッコいいな」
「照れます」
やがて着いた理子の家の前で、理子は「思い出した、これが私の家だ」と言った。そして、俺を振り返り、笑顔で言った。
「じゃあ、二人暮らしについて考えますか。おいしいコーヒーも紅茶もあるよ」
「良いね」
俺達は同じ扉を開けて行く。きっと、これからも。