第5章:『明日への記憶』
夕焼けに染まる屋上で、四人は沈黙していた。藤堂先生の表情は、もはや普段の優しい教師のものではなかった。夕陽に照らされた顔には、長年の疲れと諦めが刻まれている。
「全部、話してしまったのね」
藤堂先生は深いため息をついた。その周りの風が、さらに濃く、暗く渦巻いている。それは何十年もの重い秘密を背負った風だった。
「先生こそ、どうして……」
千風が問いかけると、藤堂先生は不敵な笑みを浮かべた。その笑みの奥には、何か深い悲しみが隠されているように見えた。
「この学校には、戦時中から続く秘密がある。私たちは代々、その秘密を守ってきた。記憶を操る力を持つ者たちによって」
藤堂先生の言葉に、屋上の空気が凍りついたように感じた。街の喧騒も、どこか遠くに消えていく。
「清明学園は、記憶の力を持つ者たちの聖地なの。戦時中、この場所で多くの人々の記憶が操作された。そして戦後も、私たちは危険な記憶を持つ者から、その記憶を消し去ることで、世界の均衡を保ってきた」
夕暮れの風が、四人の間を吹き抜けていく。どこからか、下校時のチャイムが響いてきた。その音が、異様に鋭く耳に刺さる。
「霧島くんが見てしまった書類は、その歴史に関わるもの。戦時中の秘密実験の記録。記憶を操作された人々の名簿。そして……」
藤堂先生は一瞬言葉を詰まらせた。
「現在も続く、記憶操作の真の目的」
霧島の顔が蒼白になる。彼の周りの風が、激しく渦を巻き始めた。
「生徒会室の奥の金庫」霧島が震える声で言った。「そこに、全ての記録が……」
「そう。あなたは偶然それを見てしまった。このままでは、あなたの命が危険だった。だから、鷹宮さんに記憶を消してもらったの」
千風は震える声で問いかけた。
「でも、それは間違っています! 人の記憶を、勝手に奪うなんて。それは人の人生を奪うことと同じです」
「間違っているのは、あなたよ」
藤堂先生の声が鋭く響く。その目には、今まで見たことのない強い光が宿っていた。
「記憶を見る力など、持つべきではなかった。その力は、いずれあなたの命さえ奪うことになる。あなたのお祖母様のように」
その言葉に、千風は息を呑んだ。確かに、祖母は若くして命を落とした。記憶を見る力の代償として。しかし。
「それでも、私は見続けます」
千風は強く言い切った。血が滲むような痛みが全身を走る。それでも、彼女は続けた。
「霧島くんの本当の記憶を、取り戻すために。そして、この学校に隠された真実を明らかにするために」
その瞬間、不思議なことが起きた。千風の周りの風が、淡く光り始めたのだ。それは祖母から受け継いだ力が、新たな段階に達したことを示していた。その光は、まるで夕陽のように温かい。
「やめなさい!」
藤堂先生が叫ぶ。しかし、もう遅かった。
千風の中に、霧島の記憶が流れ込んでくる。生徒会室で見つけた古い記録。戦時中の実験の詳細。記憶を操作された人々の苦しみ。そして、その後も続く記憶操作の真実。記憶を奪った者たちは、その力を糧として長命を得ていたのだ。
霧島は、その真実を知ってしまった。そして、それを公にしようとした。
「あ……」
霧島が小さく声を上げた。彼の目に、記憶が蘇っていく光が宿る。
「僕は、あの書類を公にしようとした。世界に、この学校の真実を知らせようとした。でも、それを止められて……」
鷹宮が涙を流しながら頷く。
「ごめんなさい。私は、あなたを守るために、記憶を消すしかなかったの。でも、本当は……本当は私も、この役目に疑問を感じていた」
その時、千風の体に激しい痛みが走った。記憶を見る代償が、全身を突き刺すように襲ってくる。それは、まるで体が千切れるような痛み。
「千風さん!」
霧島が駆け寄る。しかし、千風は微笑んだ。
「大丈夫。これが私の選んだ道だから。祖母が託してくれた力だから」
藤堂先生が、諦めたように溜息をついた。その表情に、長年の仮面が剥がれ落ちていく。
「あなたたち、本当に祖母そっくりね」
「え?」
「そう、あなたのお祖母様も、かつて同じ選択をした人よ。記憶を見る力で、この学校の闇を暴こうとした。でも……」
先生の声が柔らかくなる。その目には、懐かしむような色が浮かんでいた。
「結局、命を落としてしまった。私は、同じ過ちを繰り返させたくなかったの。あの時、私が止められていれば……」
千風は、ゆっくりと立ち上がった。体の痛みは続いているが、心は確かだった。
「祖母の想いは、私の中に生きています。だから……」
千風は霧島と鷹宮の方を向いた。二人の目に、同じ決意が浮かんでいる。
「三人で、この学校の本当の姿を明らかにしましょう。記憶を奪うことで保たれる均衡なんて、きっと間違っている。新しい時代は、もう始まっているはずです」
夕暮れの空が、深い紅に染まっていく。遠くでは、誰かが下校時の掃除をしている音が聞こえた。日常の音が、この非日常の時間に響く。
藤堂先生は、長い沈黙の後で静かに言った。
「分かったわ。私も、少し疲れていたのかもしれない。この役目に。そして、時代の変化に」
先生の周りの暗い風が、少しずつ薄れていく。それは、長年の重荷が解けていくようでもあった。
「ただし、条件があるわ。記憶の力を持つ者たちの存在は、まだ明らかにしてはいけない。その代わり、これからは記憶を奪うのではなく、守る方法を考えましょう」
千風は頷いた。霧島と鷹宮も、同意の表情を浮かべている。
夕暮れの風が、四人の新たな約束を優しく包み込んでいった。それは、戦後の傷痕を癒し、新しい時代を告げる風だった。