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第4章:『引き裂かれた真実』

 放課後の校舎は、不思議な静けさに包まれていた。廊下に並ぶ窓からは、オレンジ色の夕陽が差し込み、床に長い影を落としている。どこからか、部活動のピアノの音が響いてきた。


 旧校舎の廊下を歩きながら、千風は戦後の傷跡をそこかしこに見つけた。壁のひび割れは、かつての空襲の名残。古い階段の手すりには、誰かの思い出が刻まれているように見える。そこには「昭和二十年、必勝」という文字が、かすかに残っていた。


「ここが音楽室」


 霧島は千風を案内しながら、ゆっくりと扉を開けた。誰もいない音楽室には、古いグランドピアノが佇んでいる。それは戦火を潜り抜けてきた楽器だと、藤堂先生から聞いたことがあった。窓際には、季節外れの七夕の飾りが残されていた。短冊には「記憶が戻りますように」という誰かの願い事が書かれている。


「この場所、なんだか懐かしい気がする……」


 霧島がピアノに近づき、鍵盤に手を伸ばした。埃っぽい光の中で、彼の横顔が切なく浮かび上がる。その瞬間、千風は風を見た。霧島の周りを渦巻く風の中に、一筋の旋律が見えたのだ。


「弾いてみて」


 千風の言葉に、霧島は戸惑いながらも鍵盤に触れた。すると、意識せずに指が動き出す。


 ショパンのノクターン。切なく美しい旋律が、夕暮れの音楽室に響き始めた。その音色は、まるで失われた記憶を呼び覚ますかのように、空間を満たしていく。


「僕、ピアノ弾けるんだ……」


 霧島は驚いたように呟いた。その目には、小さな光が宿っていた。千風は彼の演奏に聴き入りながら、ピアノの上に置かれた古い写真立てに目を留めた。そこには、終戦直後の音楽室の様子が写っていた。廃墟のような教室で、一台のピアノだけが奇跡的に無傷で残されている。その周りで、制服姿の生徒たちが歌を歌っている。


「きっと、習っていたのね」


 千風は静かに言った。しかし、その時。激しい頭痛が襲ってきた。霧島の弾くピアノの音色とともに、記憶の風が千風の中に流れ込んでくる。それは、まるで誰かの強い思いが込められているかのようだった。


 断片的な映像が浮かぶ。音楽室で誰かと話す霧島。楽譜を手渡す手。そして、生徒会室での激しい言い争い。記憶の中の霧島は、何かに怯えているようだった。


「千風さん!」


 気が付くと、千風は床に膝をつき、苦しそうに胸を押さえていた。霧島が慌てて駆け寄る。ピアノの音が途切れ、夕暮れの静寂が教室を満たす。


「大丈夫?」


「うん、ちょっと貧血みたい……」


 千風は嘘をついた。記憶を見ることの代償が、また体を蝕んでいく。それは、まるで祖母の最期のように。


 窓の外では、夕焼けが深まっていた。校庭の銀杏の木が、オレンジ色に染まっている。その風景は、どこか懐かしい記憶の色をしていた。


 と、その時。


「こんなところにいたのね」


 音楽室の入口に、鷹宮結衣が立っていた。その表情には、いつもの冷静さが欠けている。制服の襟元の生徒会長の徽章が、夕陽に輝いていた。


「やっぱり、あなたには何かある。普通の人には見えないものが見えるのでしょう?」


 千風は息を呑んだ。鷹宮は、千風の能力に気付いているのだろうか。しかし、それ以上に気になったのは、鷹宮の周りに渦巻く風だった。それは霧島のものとは違う、何か意図を持った風。まるで、誰かの記憶を消し去ろうとするかのような。


「そして、霧島くん。あなたの記憶は、まだ完全には消えていないはず」


 鷹宮の言葉に、霧島の表情が変わった。


「どういうこと?」


「説明するわ。でも、ここではまずいから……」


 鷹宮が言いかけたとき、廊下から足音が響いた。重い革靴の音。それは、間違いなく教師のものだった。


「誰か来るわ。屋上に来て」


 鷹宮は素早く身を翻し、音楽室を出て行った。残された二人は顔を見合わせた。夕陽に照らされた教室に、蝉の最後の声が響く。


「行ってみる?」


 千風の問いかけに、霧島は黙って頷いた。


 屋上への階段を上りながら、千風は考えていた。鷹宮結衣。彼女の周りの風は、確かに普通ではない。そして、霧島の記憶についても、何か知っているようだ。階段の窓からは、街並みが見える。戦後の復興を遂げつつある街には、まだ所々に焼け跡が残っている。しかし、人々は前を向いて生きていた。


 屋上のドアを開けると、夕暮れの風が二人を迎えた。街には、家々の明かりが一つ二つと灯り始めている。遠くからは、踏切の音が聞こえてきた。誰かの帰り道を告げる音。


 鷹宮は手すりに寄りかかり、夕焼けを見つめていた。その姿は、どこか寂しげに見えた。


「私も、記憶を見ることができるの」


 鷹宮の言葉に、千風は驚いて立ち止まった。


「でも、あなたとは違うわ。私にできるのは、記憶を消すこと」


 その告白に、空気が凍りついたように感じた。夕暮れの風が、三人の間を吹き抜けていく。どこかで、古い風鈴の音が響いた。


「霧島くんの記憶を消したのは、私」


 鷹宮の声は、か細かった。その周りの風が、激しく渦を巻き始める。それは罪悪感と後悔の色をしていた。


「どうして!?」


 千風は思わず叫んだ。霧島は、ただ呆然と鷹宮を見つめている。その目には、混乱と共に、何かを思い出そうとする痛ましい表情が浮かんでいた。


「彼を、守るため」


 鷹宮は振り返り、真っ直ぐに二人を見た。その目には、深い悲しみが浮かんでいた。夕陽が彼女の横顔を赤く染める。


「一ヶ月前、この学校で事件があった。生徒会室で見つけた、ある書類のことで……」


 鷹宮の言葉は、途中で途切れた。彼女の周りの風が、さらに強くなっていく。まるで、誰かに記憶を消されることを恐れているかのように。


「その続きは、話せない。私の記憶も、消されそうになっているから」


「消されそう? 誰かに?」


「ええ。この学校の……」


 その時、屋上のドアが大きな音を立てて開いた。振り向くと、そこには藤堂先生が立っていた。普段の優しい表情は消え、どこか冷たい目で三人を見つめている。


「やっぱり、ここにいたのね」


 藤堂先生の声には、今まで聞いたことのない冷酷さが混じっていた。その周りにも、見たことのない風が渦巻いていた。


「鷹宮さん、約束が違うわ。記憶を消すことは、あなたの務めでしょう?」


 夕暮れの空に、カラスの鳴き声が響く。事態は、思いもよらない方向に動き始めていた。屋上の手すりに残る夕陽が、まるで血のように赤く見えた。


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