第3章:『記憶の渦潮』
翌朝、千風は清明学園の門をくぐった。古い石造りの校舎は、朝日を受けて影を長く伸ばしている。中庭には立派な噴水があり、その水音が静かな朝の空気に溶け込んでいた。
新しいクラスは、二年A組。
「綾瀬さん、こちらです」
担任の藤堂先生は、優しく微笑みながら教壇の横に立つよう促した。藍色の上着に白いブラウス、黒縁の眼鏡をかけた四十代くらいの女性だ。
黒板には白墨で「綾瀬千風」と書かれている。教室に並ぶ木の机からは、懐かしい蜜蝋の香りがした。
「東京から転校してきました、綾瀬千風です。よろしくお願いします」
千風が挨拶を終えると、教室の後ろの方で物音がした。振り向くと、そこには昨日出会った霧島蒼真の姿があった。彼は困惑したような表情で千風を見つめている。
「では、綾瀬さんは……霧島くんの隣の席に座ってください」
藤堂先生の言葉に、クラスメイトたちが小さくざわめいた。どうやら、霧島は謎の多い存在として認識されているようだ。
授業が始まり、窓の外では夏の陽射しが強くなっていく。蝉の声が木々の間から聞こえ、それは教室に響く先生の声と不思議な調和を奏でていた。
休み時間。千風は霧島に声をかけた。
「放課後、一緒に帰らない?」
霧島は少し考えてから頷いた。その表情には、昨日の不安が少し薄れているように見えた。
そのとき、
「あら、綾瀬さん」
藤堂先生が声をかけてきた。
「ちょっと保健室に来てくれないかしら」
千風は一瞬躊躇したが、先生の後について保健室へ向かった。廊下の窓からは、運動場で体育の授業を受ける生徒たちが見える。誰かがボールを蹴る音が、木造の廊下に響いた。
保健室に入ると、消毒薬の香りが鼻をつく。白いカーテンが風に揺れ、その向こうのベッドに誰かが横たわっているのが見えた。
「実は、気になることがあって」
藤堂先生は静かな声で話し始めた。
「霧島くんのこと、知ってる? 一ヶ月前から、彼は記憶を失っているの」
千風は息を呑んだ。一ヶ月前。それは、池上さんの話していた記憶喪失の噂と時期が重なる。
「彼は授業のことは覚えているし、基本的な生活に支障はないの。でも、自分が誰なのか、家族のこと、そういった個人的な記憶が全て消えてしまって……」
先生の声には、深い憂いが滲んでいた。
「警察も調べているけれど、手がかりが見つからなくて。身元を示す手がかりも、全て消えているの」
千風は黙って話を聞いていた。霧島の周りの風が、あれほど激しく渦巻いていた理由が、少しずつ分かってきた。
「綾瀬さんには、何か気付いたことはない?」
「いいえ……」
千風は嘘をつくしかなかった。他人の記憶が見える能力のことは、誰にも言えない。それは、祖母との約束だった。
保健室を出た千風は、深いため息をついた。廊下の窓から差し込む陽射しが、床に斜めの影を落としている。
と、その時。
「待っていました」
廊下の陰から、見知らぬ生徒が現れた。制服の襟元には、生徒会の徽章が光っている。
「私は生徒会長の鷹宮結衣です。綾瀬さんのことで、お話があって」
鷹宮結衣は、凛とした雰囲気を持つ少女だった。長い黒髪が、きちんと肩で揃えられている。
「霧島くんと、接触しない方がいいわ」
唐突な警告に、千風は眉をひそめた。
「どうしてですか?」
「理由は言えないけれど……安全のためよ」
鷹宮の目には、真剣な色が浮かんでいた。そして、その周りにも、見たことのない種類の風が渦巻いているのが見えた。それは霧島の記憶の風とは違う、何か意図を持った風だった。
「考えておきます」
千風は曖昧な返事をして、その場を去った。しかし、鷹宮の警告は気になった。彼女は何か知っているのだろうか。そして、なぜ霧島に近づくことを止めようとしたのか。
教室に戻ると、霧島は窓際で一人、空を見上げていた。その姿は、どこか切なく見えた。
「霧島くん」
千風が声をかけると、彼は少し驚いたように振り向いた。
「あのさ、放課後、学校の中を案内してもらえない?」
霧島の目が少し輝いた。
「うん、いいよ」
その返事には、小さな期待が込められているように感じた。二人の秘密の探索は、これから本格的に始まろうとしていた。
午後の教室に、蝉の声が響く。黒板に落ちる日差しが、白墨の文字を眩しく照らしていた。千風は密かに決意を固めた。鷹宮結衣の警告の意味も、霧島の失われた記憶の謎も、必ず解き明かしてみせる。
たとえ、それが大きな代償を伴うことになったとしても。




