第2章:『霧の中の約束』
祖母の家は、千風の記憶通りだった。表構えは古い木戸、玄関には擦り切れた石段。庭には苔むした石灯籠が佇み、軒下には古びた風鈴が揺れている。二階の窓からは、清明学園の時計台が見えた。その時計台は戦災を免れた数少ない建物の一つで、変わりゆく街並みの中で昔からの威厳を保っていた。
千風は霧島を客間に通した。八畳ほどの和室は、長く人が住んでいなかったせいか、どこか懐かしい埃の匂いがした。床の間には、祖母が好んでいた水墨画が掛けられており、その横には戦前から変わらない置き時計が、静かに時を刻んでいる。
畳の上に座った少年は、まるで初めて畳を見るかのように、その感触を確かめていた。戦後、多くの家が洋風化を進める中、この家は頑なに昔ながらの佇まいを守っていた。
「お茶を入れるわ」
千風は立ち上がろうとした。祖母から教わった作法通り、客人にはまず煎茶でもてなそうと思った。古い茶棚には、祖母が大切にしていた煎茶の道具が残されているはずだ。
その時、霧島が千風の袖を掴んだ。その手には、かすかな震えが感じられた。
「待って! 僕のことを……僕のことを知っているの?」
その目には、必死の色が浮かんでいた。記憶を失くした人特有の、すがるような眼差し。千風はその表情に、戦争で家族を失った人々の姿を重ねた。
千風は静かに首を振る。縁側から差し込む夕陽が、二人の間に長い影を落としていた。
「ごめんなさい。私にも分からないの。でも、あなたの記憶が見えるの。風のように」
「風のように?」
霧島は首を傾げた。その仕草は、どこか子供らしい無邪気さを感じさせた。しかし、その周りを渦巻く記憶の風は、ますます激しさを増していく。
「私には、人の記憶が風として見えるの。楽しい記憶は春風のように穏やか。悲しい記憶は秋風みたいに切なくて」
千風は言葉を選びながら続けた。縁側では、風鈴が小さく鳴っている。
「戦争の記憶は、冬の嵐のように荒々しい。でも、あなたの周りの風は……」
「僕の周りの風は?」
霧島の声が震えていた。
「まるで、嵐の目のよう。誰かが意図的に、記憶を奪ったみたい」
霧島の表情が曇る。窓の外では、カラスが鳴いていた。その声が、異様に響く。座敷の隅に置かれた古い柱時計が、重々しく時を刻んでいく。
「じゃあ、僕の記憶は……」
「取り戻せるかもしれない。でも、それには代償が必要なの」
千風は自分の右手を見つめた。手のひらには、かすかな傷跡が残っている。他人の記憶を見るたびに、千風の体は少しずつ傷ついていく。それは、祖母から受け継いだ能力の宿命だった。
戦後、多くの人々が新しい生活を求めて変化していく中で、この能力は古い世界との繋がりを象徴していた。祖母はよく言っていた。「記憶を持つということは、過去を背負うということ」と。
突然、玄関で物音がした。下駄の音が石段を上がってくる。
「お客様?」
年配の女性の声が響く。千風は飛び上がるように立った。
(まずい!)
今日から世話になる大家の池上さんだ。事情を話す前に、霧島のことを見られるわけにはいかない。特に、記憶を失った少年を家に入れていることは、様々な憶測を呼ぶだろう。
「霧島くん、二階へ!」
千風は咄嗟に霧島を押し出した。階段を上がる足音と、玄関の戸が開く音が重なる。古い階段が軋む音に、千風はハラハラした。
「あら、綾瀬さん。もうお着きになってたの?」
池上さんは、祖母の古い友人だった。六十がらみの優しそうな女性で、着物姿がよく似合っている。しかし、その着物は新しい生地で仕立てられており、時代の変化を感じさせた。
「はい、今着いたところです」
千風は平静を装って応対した。二階では物音一つしない。霧島は、空気を読んでくれたようだ。
「あらまあ、お祖母様にそっくりね」
池上さんは千風の顔をじっと見つめた。その目に、懐かしむような色が浮かぶ。池上さんの周りにも、淡い記憶の風が渦巻いていた。それは祖母との思い出の風。
「お祖母様とは、よく一緒にお茶を飲んだものですよ。あの方も、特別な力をお持ちで……」
千風は息を呑んだ。祖母の能力のことを、池上さんは知っているのだろうか。戦前、この街では特別な力を持つ者たちが、ひっそりと暮らしていたという噂があった。
池上さんは、急に話題を変えた。その表情には、どこか不安の色が浮かんでいる。
「そうそう、近所で気になることが起きてるの。この一年くらい、時々若い人が記憶を無くしてるって噂なの。警察も調べてるみたいだけど……」
その言葉に、千風は耳を澄ませた。記憶喪失の噂。それは、霧島の症状と無関係ではないはずだ。そして、それは単なる事故や病気ではなく、誰かの意図が働いているような気がした。
「特に清明学園の生徒に多いらしくて。あの学校、戦前から不思議な噂が多かったのよ」
池上さんの声は、さらに低くなった。
「では、お部屋の案内をさせていただきますね」
池上さんが階段に向かおうとしたとき、二階から物音がした。千風は咄嗟に咳き込んで、その音を掻き消そうとした。
「あら? 誰かいらっしゃるの?」
「いいえ! きっと、古い建物の軋む音です」
千風は慌てて言い訳をした。池上さんは怪訝な表情を浮かべたが、それ以上は追及しなかった。しかし、その目には何かを見透かすような色が浮かんでいた。
「そうですか。でも、綾瀬さん。この家には、色々な記憶が残っているの。その記憶と上手く付き合っていかないと」
その言葉には、何か深い意味が込められているように感じた。池上さんは本当に何も知らないのだろうか。
夜になって、ようやく池上さんが帰った。千風は安堵のため息をつきながら、二階へ向かった。古い階段を上がる足音が、静かな家に響く。
階段を上がると、霧島は窓際に立っていた。夕暮れの光が、その横顔を照らしている。窓の外では、街灯が次々と灯り始めていた。新しく設置された蛍光灯の明かりは、古い街並みに不思議な影を落としていた。
「ごめんなさい、長い間待たせて」
千風が声をかけると、霧島はゆっくりと振り向いた。その表情には、何か決意のようなものが浮かんでいた。
「この学校、僕も通ってるんだ」
窓から見える清明学園を、霧島は指差した。夕闇の中で、時計台だけが月明かりに照らされていた。
「どうして分かるの?」
「制服を見て。この詰め襟は、清明学園の制服だよ」
確かに、霧島の着ている制服は清明学園のものだった。戦後、多くの学校が新制服を採用する中、清明学園は伝統的な詰め襟を守り続けていた。それなのに、なぜ彼は学校のことを覚えていないのだろう。
「あのね、霧島くん。私、あなたの記憶を取り戻すの、手伝いたいの」
千風は決意を込めて言った。それは、単に霧島を助けたいという思いだけではない。この街で起きている不可思議な出来事、そして清明学園に隠された謎。それらを解き明かすことが、祖母から託された使命なのかもしれないと感じていた。
霧島は驚いたような表情を浮かべる。月明かりに照らされた彼の横顔が、儚く見えた。
「でも、さっき言ってた代償って……」
「大丈夫。これは、私がしたいことだから」
千風は微笑んだ。窓の外では、夏の夕暮れが深まっていく。どこからか、蝉の声が聞こえてきた。その音は、新しい時代の足音のようでもあり、失われていく古い記憶の声のようでもあった。
「でも、条件があるの。誰にも私たちのことは言わないで。特に、池上さんには」
霧島は黙って頷いた。その表情には、どこか安堵の色が浮かんでいた。それは、誰かに理解されることを待ち望んでいた人の、小さな希望の光だった。
夜風が窓を揺らす。その風は、千風たちが見ている記憶の風とは違う、生きた風だった。その風が、これから始まる冒険を予感させるように、二人の髪を優しく撫でていった。
そうして、記憶を探す二人の秘密の旅が始まった。それが、どれほどの代償を伴うことになるのか、まだ誰も知らなかった。しかし、それは確かに、新しい時代の幕開けを告げる物語の始まりだった。
古い置き時計が、重々しく十時を打つ。その音は、まるで二人の決意を確かめるように、静かな夜の闇に響いていった。