第1章:『風見る少女の帰郷』
昭和二十八年の夏。電車の車窓を叩く雨音が、綾瀬千風の耳に懐かしく響いた。木造の古い車両が軋むたびに、座席の藤板がきしむ。降り出した夕立は、どこか懐かしい匂いを車内に運んでくる。
土の匂い。そして、誰かの記憶の香り。
千風は薄く目を開け、ガラス窓に映る自分の姿を確かめた。髪の毛が肩で跳ねる、小柄な少女。制服の紺のセーラー服は、母が丁寧に繕ってくれたものだ。胸元の三本線は、まだ一年生という印。
車窓の外には、戦後の復興を象徴するように、新しい建物が立ち並び始めていた。しかし、その合間には今でも焼け跡が残り、人々の心の傷跡を静かに物語っている。千風はそんな風景に目を向けながら、祖母の言葉を思い出していた。
「記憶は風のようなもの。時に優しく、時に荒々しく、人の心を吹き抜けていくのよ」
祖母もまた、千風と同じ力を持っていた。人の記憶を風として見る力。しかし、その力は祖母から大きな代償を求めた。若くして命を落とした祖母の最期の言葉は、千風の心に深く刻まれている。
「あなたの力は、きっと誰かの光になる」
「あの、お姉ちゃん……」
突然、隣から声がした。振り向くと、小学生くらいの男の子が不安そうな顔で千風を見上げていた。肩から掛けた通学かばんには、空襲で焼けたような跡が残っている。
「どうしたの?」
「僕、どこに行くんだっけ……?」
その瞬間、千風の目に風が見えた。誰にも見えない、記憶の風が。少年の周りを渦巻く風は、どこか歪んでいて、千切れては消えていく。それは記憶が失われているときに見える特徴的な風だった。
千風は静かに目を閉じ、その風に意識を向けた。すると、断片的な映像が浮かび上がる。古びた木造校舎。放課後の教室。戦時中の防空壕。そして、誰かを探す少年の必死な叫び声。
千風は胸が締め付けられるような痛みを感じた。戦争の記憶。それは、この国の多くの人々が抱える深い傷跡だった。
「あっ!」
急に頭を振った少年は、きょとんとした顔で千風を見た。その目には、少し前まであった不安の色が消えている。
「どうしたの?」
「ううん、なんでもない。家に帰る道を思い出したよ。ありがとう、お姉ちゃん」
少年は急に立ち上がると、前の車両へと走り去っていった。その背中から、千切れかけていた風が少しずつ形を整えていくのが見えた。きっと、少年は自分の記憶と向き合う準備が、少しだけできたのだろう。
千風は深いため息をついた。また誰かの記憶を垣間見てしまった。でも、今回は軽いものだったから良かった。重い記憶の風を見ると、それは千風の体から何かを持ち去っていく。それが、この力の代償なのだ。
車窓の外では、雨がやみ始めていた。どこからか風鈴の音が聞こえ、千風の耳をくすぐる。路地には、雨に濡れた朝顔の花が咲いていた。戦後の新しい時代を象徴するように、そこかしこで夏の匂いが目覚めていく。
やがて列車は、目的地の駅に到着した。木造のホームに降り立つと、活気のある市場の喧騒が耳に飛び込んでくる。八百屋の店先には真っ赤なトマトが山積みにされ、魚屋では氷の上で鮮魚が輝いていた。しかし、その賑わいの中にも、まだ配給を待つ人々の長い列が残っていた。
千風は改札を出て、古い地図を確認した。転校先の私立清明学園まで、徒歩で十五分。祖母が住んでいた古い日本家屋は、その途中にあるはずだった。
路地を曲がると、懐かしい風景が広がる。軒先に吊るされた風鈴が、さっきまでの雨を惜しむように鳴っていた。両側には古い町家が並び、漆喰の壁には苔がこびりついている。空き地では、まだ誰も住んでいない場所に、夏草が青々と茂っていた。それは戦争の傷跡でもあり、新しい命の芽吹きでもあった。
道を進むにつれ、千風の足取りは重くなっていく。祖母の家に近づくにつれ、空気が濃くなっていくような感覚があった。それは、誰かの強い記憶が残っている証だった。
時折通り過ぎる人々の中には、戦争の記憶を背負って生きている人の姿が見える。その記憶の風は、時に激しく、時に切なく、人々の周りを渦巻いていた。しかし、その中にも確かに、新しい時代への希望の光が混ざり始めていた。
と、その時。
「あっ!」
曲がり角で、誰かとぶつかりそうになった。千風は咄嗟に身をかわしたが、相手は避けきれず、地面に倒れこんでしまう。
「ごめんなさい! 大丈夫……?」
千風が声をかけた相手は、自分と同じくらいの年頃の少年だった。黒い詰め襟の学生服は、清明学園のものだと分かる。しかし、その姿には何か不自然なものがあった。
少年の周りには、見たことのないほど激しい風が渦巻いていた。それは戦争の記憶とも違う、もっと意図的な何かによって引き裂かれた記憶の風だった。記憶の風は、まるで嵐のように荒れ狂い、その中心で少年は途方に暮れたような表情を浮かべていた。
「僕は……」
少年は言葉を詰まらせ、困惑した様子で周りを見回す。その仕草は、先ほどの電車の中の子供を思い出させた。しかし、この少年の場合は明らかに異なっていた。より深く、より暴力的に、記憶が奪われているような感覚があった。
「君の名前は?」
千風が優しく声をかけると、少年は苦しそうに目を閉じた。
「霧島、霧島蒼真です。でも、それ以外のことが……何も……」
その言葉を聞いた瞬間、千風の体に強い痛みが走った。今まで見たことのない強さで、記憶の風が千風の中に流れ込んでくる。それは、まるで千風の記憶まで奪おうとしているかのようだった。
(これは、ただの記憶喪失じゃない……)
千風は直感的にそう悟った。霧島蒼真という少年の記憶は、誰かによって意図的に奪われたのだ。そして、その記憶を取り戻すことは、きっと千風にとって大きな代償を伴うことになる。それは、しかし、祖母が自分に託した使命でもあった。
夕暮れの街に、風鈴の音が響く。それは、まるでこれから始まる物語の前奏曲のように、千風の耳に届いた。新しい時代の幕開けとともに、記憶の物語が動き始めようとしていた。