共和国図書館書庫 3
「お前のせいだ。リゼ……」
ルドヴィクは、書庫と自分の間に私を挟んだまま、頑固に繰り返す。
私はその中で出来る限り、顎を上げて長身の彼に向き合った。
「そ、そー……それは、い、言いがかりと言うものでしょう。元首閣下」
「ルドヴィク、ルドだ。リゼ。そう呼べ。それにこれは、言いがかりではない」
「それは、おー……お役人様か、こ、婚約者様とよく話し合わわれた方が、よ、よいかと……」
「お前、それ大真面目に言っているんだろうなぁ」
「は?」
……ルド?
彼は、書架にがくりと肘を突いて、首を垂れている。
そのせいで髪が、すっかり彼の影に入ってしまった私の額に触れた。
これでは距離が近すぎる。酷く落ち着かない。
それにしても、私は何か間違った事を言ったのだろうか?
いや、言ってないと思う。
行き違いになった事は、話し合いで解決するのが一番いいに決まっている。
ましてや彼は、政治家なのだから、その経験は豊富な筈ではないのか?
はぁ~っと、首を傾げて太い息を吐く元首の顔は暗い。
少しだけお酒の匂いがした。
「お前、俺が婚約すると知っていたんだな」
「もっぱらの噂で……」
私はどもらないように、できるだけ短く答える。
「どう思った?」
「いいのでは?……せ、政治家は妻帯した方が、信用が増すと言いますから」
気をつけてゆっくりと言ったつもりが、正論であるにもかかわらず、ルドヴィクは納得した様子もない。
どころか、ますます眉間のしわが深くなった。
「さすがの俺も、心がへし折れそうだわ……もっとも、お前にそう思わせ続けたのは俺か。自業自得と言うべきだな」
「……?」
何の事を言っているんだろう、この人は。
さっぱりわからないんですけど。
私は間抜け面で首を傾げる。
「くそっ!」
ダン!
「ひゃっ!」
突然大きな拳が書架を殴りつけた。
何てことするんだろう!
私は非常に腹が立ったので、怯える気持ちがどこかへ吹っ飛んだ。
ぎろりとルドヴィクを睨みつける。
しかし、彼も、ものすごいしかめ面を私に向けていた。
ま、負けるもんか!
私は司書だ。本を管理し、守るのが職務だ。
「ら、乱暴はおやめ下さい! 書物は国家の財産です!」
「……俺より本の心配か? リゼ」
「そうです!」
当然だ。
この男は頑丈にできているからいいが、貴重な本が傷んでしまうではないか。
ただでさえ古い本の修復は難しいのに。
「まったく、本気で俺を殺す気らしいな、お前は」
「は? コロス?」
さっきから何を言っているのだか?
やはり、昔も今もこの男は苦手だ。
あからさまに不審な顔をした私を覗きこんで、ルドヴィクは、私の大切な本の背を殴ったその手を私の頬に伸ばしてきた。
驚いて体を竦める。
しかし、次の瞬間、私は力強い腕に抱きしめられていた。
な……これは?
抗おうにも、恐慌に陥って手足が上手く動いてくれない。
ひゅうという音を立てて、喉が空気を吸い込むのを感じた。
「リゼ……確かに俺が全部悪いんだが……頼むから少しは俺を見てくれ」
耳元でそう囁かれて、首筋が粟立つ。
何コレ?
わかったわ、とにかく見ればいいのね。見れば。
そうしたら、この訳のわからない状況から解放してくれるのね?
私は、おそるおそる目を開けた。驚いた事に、息がかかるほど近くに、彼の顔があった。
「リゼ」
「は……はい」
「俺はもう、ごまかしたりしない。脅しもしない。直接話法でお前に伝える。でないと、一生分かってもらえそうにないからな、いいか、リゼ」
ルドヴィクは光の強い瞳で私を見据え、片方の手で私の顎を掴んだ。
「はい?」
一体何を言おうと言うの? ってか、少しだけでもいいから身体を放して欲しい。
ルドヴィクの体が熱くて、巻きつく腕が苦しくて、私は膝が崩れそうになるのを必死で耐えた。
「今から俺が言う事は全て真実だ。もう、お前をからかったりしないから、どうかちゃんと聞いてくれ」
「はい」
私は馬鹿みたいに、はいを繰り返した。
「お前を人嫌いにさせたのは俺だ」
はい、その通りです。
ようやく意味がわかる事を言ったわね。
私は小さく頷いて見せた。
それを見てルドは、やっぱり苦しそうに口元を歪める。
あら、少しは反省しているの?
それとも元首になったから、今更昔の過ちをすすごうと言うのかしら。
「俺が嫌いか?」
「む……昔は、とても」
正直に答える。
「そうか、そうだろうな? では今は? 今も俺が嫌い?」
「……」
さて。どうだろうか?
確かに苦手だが、苦手と嫌いとは、中身が違うような気がする。
目の前の男は、どちらかと言えば軽い身分から努力を重ねて、国家元首にまでなった人物だ。
いかに共和国が自由と平等を謳歌する、大陸では珍しい国で、本人に才能があったとしても、そこまでのし上がるのが並大抵の苦労ではない事ぐらい、私にもわかる。
そんな勤勉な人間を嫌ってはいけないだろう。
私は小さく首を振った。
「そうか、少しは認めてくれるようになったのか。ならかえって、昨夜いきなり申し込んで驚かせなくてよかった」
「……」
「既成事実を作って、お前を追い詰めなくて正解だったってこった。俺が間違っていた。お前の縁談を聞いて、焦っていたんだ」
「えんだん?」
どうして私の縁談が、ここに出てくるんだろう。それにその話を断ったことまで、聞いていなかったのだろうか?
支離滅裂で話が見えない。
「いろいろすまなかった。昔も、今も。だから正す。俺は腹をくくる。いやもう、とっくにくくっている」
まるで自分に言い聞かせるように、ルドヴィクは言うと、やっと両手を下ろして身体を離してくれた。
ぐいと背を伸ばすと、やっぱり見上げる程背が高い。
加えて元首の正装がすごく良く似合っている。
やはりこの男はすごい人なんだ。私が感心して見つめていると、ルドヴィクは瞳の力を強くして見返してきた。
「リゼ」
「はい」
「俺をすっぽかした相手は、お前だ」
「へ」
「俺が昨夜ずっと待っていた相手もお前だ。招待を無視してくれてこっぴどく振ったのも、全部お前」
「はぁ!?」
「だから、お前のせいだと言ったんだ。お前が俺を振ったんだ」
「は? わ、わ、わっかりませ……」
「まだわからんか。俺は、お前と、婚約するつもりだったんだ!」
「コ……コ、コ、コンニャク?」
余りの衝撃に、またしても激しくつっかえてしまう。
話の流れからして、コンヤクって婚約の事だろうか?
「今までいろいろすまん。ちゃんとした段取りを踏まなくてすまん。だが、アルド殿があんなにあっけなく、身罷られるとは、俺にも予想できなかったんだ」
「……」
「その上にお前の縁談話を聞いて、俺は非常に焦った。急ぐ必要があった。それで衆人の目前で、リゼを俺の婚約者として発表してしまえば、お前には断れないだろうし、誰にも邪魔されないと思った。だが、ただの招待状では、お前を公の場所には引っ張りだせない。けど、元首直々の招待状なら、さすがに断らないと思って。お前の親父さんにも頼んで」
「お父様に?」
「ああ。けど、お前は来なかった。これは相当嫌われていると、昨夜は苦しくて……」
彼は本当に、苦しそうに胸に手を置いている。
そう言えば、目の周りがうっすら黒ずんでいるようだ。
元首は激務なのに、これで大丈夫なのだろうか?
「あの……?」
「だから、夜が明けたら直ぐにここに来た。家に押しかける訳にもいかなかったし、もしかしたらここに来るだろうと思って」
そしてルドヴィクは、だしぬけに私の手を取ると、硬い床に片膝を突いた。
「リゼ、リゼ・クロトワ嬢。あなたにお願いがございます」