共和国図書館書庫 1
街を挙げて大盛り上がりのお祭り騒ぎの翌朝。
今、共和国の首都は静寂に満たされていた。
広々とした大通りは、昨夜の名残の花びらや紙吹雪が虚しく石畳に貼りついている。
昨夜は表通りも裏通りも含め、街中が新元首就任及び、婚約披露の祝賀行事で、老いも若きも上を下へのドンチャン騒ぎだったから、皆、昼近くまで眠っているのだろう。
けれど、私には宴会も新元首就任も、増してや婚約発表などさほど興味はないから、これ幸いと、いつもより大分早起きしてしまった。
大通りには共和国の重要な施設が立ち並ぶ。
正面には厳めしく荘厳な元首宮、向かって右が共和国評議会の大ドーム、更にその横が国立図書館、私の職場である。
リゼ・クロトワ。
平凡な名、平凡以下の容姿。
でも、私はこう見えても、この国立図書館の司書なのだ。
昔から本が好きで、友だちは本だけと言っても過言ではなかった私にとって、この仕事は天職だ。
商人貴族の娘が仕事を持つ事は稀だが、どう言う訳か父の友人でもあった前元首の、故アルド・ティボルト様が、私をこの仕事に推薦して下さったのだ。
父は少し渋ったが、私は天にも昇る思いで引き受けた。
以来二年間、ずっと本に囲まれて暮らしている。
残念ながらアルド・ティボルト様は去年急逝されてしまったが、私は前元首の御恩を忘れないように仕事に打ち込んでいる。
私は不器量な娘だ。
父や妹はそんな事はないと言うが、鏡に映る私の姿にはきれいな色が一つもない。
髪はたっぷりしているが、黒でも灰色でもない、いわばネズミ色で、金髪碧眼の多いこの国では非常に肩身が狭い。
その上、瞳まで同じ色で、体つきも丸く背も低い。
その為、子どもの頃は家に良く遊びに来ていた近所のいじめっ子に、ネズミとからかわれては、自分の部屋に逃げ込んでいた。
大人になった今でも身長はあの頃と大して変わらず、すらりと美しい妹とちがって何を着ても見栄えがしない。
仕方がないので、図書館員に相応しく見えるよう、品のいい眼鏡をかけて簡素な黒い服を身につけるようにしている。
それでもやっぱり人と交わるのは、なるべく避けたい。
私には昔から少し吃音がある。
子どものころほど酷くはないが、今でも緊張するとつっかえる癖があり、うまく人と話せない。
だから大勢の人前に出るのは怖くてキライだ。
そして益々本の虫になってしまう。
本は私をネズミとも呼ばず、どもりとも馬鹿にもしないで、家と図書館を往復するだけの身の上を、別の世界に連れて行ってくれる。
司書と言っても、私の仕事は閲覧室の貸出業務ではなく、奥の書庫に収蔵されている本の整理と分類、そして修理が主な仕事だった。
私は二十四歳で、貴族の娘としては嫁ぎ遅れもいいところだ。
だが、この不器量と人嫌いのせいで、嫁ぐ事はとっくの昔に諦めている。
私の幸運は、愛情深い家族に恵まれた事だ。父はずっと私を自由にさせてくれた。妹は自分が家を継ぐのだと張り切っている。
ただ、最近になってさすがに娘の行く末を心配した父が、かなり年上の貴族の男性を伴侶にと勧めて来た。
その方は奥方を早くに亡くして以来ずっと一人身でいる真面目な男性らしい。共和国評議員議員で絵姿を見ても素敵な男性だった。
こんな不細工な私では釣り合わない。社交もダメだし、ダンスも不得手だ。
私はその方が気の毒すぎて断った。父も強いては勧めなかった。
悔いなどない。私は一生本を相手に生きていく。
そう言うと、父も残念そうだったが、ちゃんと理解してくれたのだと思う。
それからは何も言わなくなった。諦められたのかもしれないが。
いいのよ、これで。共和国万歳!
リゼ・クロトワ万歳!
私は仕事で自分を鍛えるの。少しでも市民の役に立てるように。
清々しく晴れた空を見上げた私の心に、一筋の風が吹き抜ける。
それにしても静かだなぁ……いつもこんな風ならいいのに。
早朝の大通りを折れて脇道に入ると、いつもの通り、横の入り口から図書館に入った。
今日はいつも往復の送迎をしてくれる馬車はなかったので、珍しく家から歩いて来たのだ。
扉を開けて静まり返った奥庭を抜ける。
芝生の上に直ぐ隣の議事堂の美しいドームが影を落としていた。普段活発な議論が繰り広げられていると言う議事堂内も、今朝は厳かに沈黙している。
左手にそびえる華麗な建物を見上げながら、私は庭から直ぐのところにある、自分に与えられた小部屋に入った。ここからも庭とドームがよく見える。
外套を掛けて、手荷物を置くと早速仕事を開始した。
昨日今日は、共和国の祝日だったので、公共施設は全て休みである。
休みたい者は勝手に休めばいい。でも私にはやりたい仕事が溜まっているのだ。
先ずは昨日修復し終えた本を書架に片づけなければ。
私は古い、そして重い本を丁寧に取り上げた。
市民に解放されている閲覧室は広い空間だが、それでも図書館が所有している蔵書の、ほんの一部を置いてあるのに過ぎない。
裏にある幾つもの書庫には、その何十倍もの古今東西の名著が古い書架にびっしりと並んでいる。
それはもう、本の壁、本の世界だ。
私はひっそりとした書庫に入る。
薄暗い書庫には埃の匂いが漂っているが、このセピア色の空間がたまらなく好きだ。
窓は小さく、高い位置に取り付けてあり、天井の真ん中には小さな天窓がある。嵌めこまれたステンドグラスを通した光が神秘的だ。
私は本に貼られたラベルを確認し、黒いスカートの裾に気をつけながら脚立に昇った。
三角形の脚立はかなり高いが、すっかり慣れた。だが本を抱えて登る為、油断すると危ない。
いや、私がじゃなくて、本がである。
私は修理を終えた本を慎重に元の場所に戻した。
ほんとに静かだなぁ。
昨夜は遅くまで爆竹や、花火の音が通りに鳴り響いていた。
賑やかな楽団が繰り出していたようだから、道行く人たちも踊っていたのだろう。そして元首宮の中では、若き元首の就任と、婚約を祝う大舞踏会が行われていたのだ。
あのルドが元首に。
世の中、わからないもんだわね。
ルドと言うのは、昔私をいじめ倒していた、近所の悪ガキ達筆頭の名だ。
彼は織物取引で財をなしたウチとは違って、小規模な商人の次男だった。
我が家は一応貴族の称号を持っていたが、家柄等に関係なく、父親同士は仲が良くて家族ぐるみで交流があった。
彼もよく広い我が家に勝手に遊びに来ていた。
そして私のおやつをかっぱらったり、人形を壊したりして私を泣かせた。
また、私がタマに外に遊びに行くと、決まって仲間と共に、からかいにやって来るので小さい頃、私は彼が大嫌いだった。
しかしその内、二人とも大人になった。
ルドは共和国の騎士団に入り、あれよあれよという間に団員の中でも一二を争う、武術の腕前になったらしい。
一度は副騎士団長も務めていたが、今度は政治家を目指すらしく、さっさと騎士団を辞め、しばらく家業を手伝っていたが、いつのまにか推薦されて共和国評議員になったらしい。
評議員は、複数の有力な家の後押しがなければ、なれない重要な役職だから、それを聞いた時には私は驚いたものだ。
もっとも、その頃はもう殆ど会う事も無かったが、政治家として辣腕を振るうルドの噂だけは良く聞かされた。
そして数年を経て、今度は終に共和国最高の権力者で、最大の責任者、元首である。
もはや縁のない人になったわねぇ。
この街は、ルドに舵を取られてゆく。
共和国政府の役職の中では、元首だけが終身であった。
但し、世襲ではない。しかし、独身の元首と言うのも、座りが悪いので婚約を急いだのだろう。
その女性の名は公表されていないと聞く。おそらく身の安全を慮ってのことだろうが、共和国内の貴婦人だと絶対噂になるので、どうやら外国の王女様だと言う噂だと、妹が言っていた。
一体どんな女性なんだろう?
あの完璧主義のルドの事だからきっとすごくきれいで、頭のいい女の人に違いないけど。
そのまま暫く、空気中の塵が乱反射するのをぼんやり見上げていると、幾つもの書架の向うで、閉めた筈の扉がキィと鳴るのが聞こえた。
「……?」
誰かやって来たのだろうか?
大体、今日は休館日だ。私以外の人間が図書館に用がある訳がない。
しかし、耳を澄ますと小さくはあるが、確かにコツコツと言う足音がする。
そして音は確実にこちらへ近づいていた。
「ど、どなたですか?」
思い切って声をあげてみる。
力強い歩調に、男性職員の誰かだと想像する。だが、返事はない。
広い書庫をまるで知っているかのように、迷いなくこちらにやって来る。私は脚立の上で、密かな恐怖が込み上げてくるのを感じた。
「誰なの!」
精一杯張り上げた声にもやはり返事はなく、最後の書架を回って、足音の主は姿を現した。
「やっぱりここにいたか、ネズミ」
「あっ!」
そこには昨日、共和国元首に就任した筈のルドヴィク・ゼンが立っていた。